『夏の雪』辻和之
定型にあてはめたうえ、言葉がよけいに輝くのは、やはり見る人読む人の存在があるからとしか言いようがない。定型というものは言葉をどこかへしまいこむケースではない。これ見よがしに飾りつけるディスプレイというのでもなく、ただなんというか枠である。裸の言葉に対する被服という見方が私には近いだろうか。身を覆う布の質感、質量、パターン、またあえて肌が見えたままにする場所とそうでない場所、ふくらませる場所と絞る場所、それは機能面でもあれば意匠面でもある、といった総合の活動によってなされるのが定型の業であるのではないか。被服は人に見られるという大きな役割(そしてそれだけではない)があり、同じように(ときに声に出して)読まれることを果たすものが定型なのではないか。
『夏の雪』ではときに詩集のように、すなわち短歌の韻律をベースにしながらも握りすぎない片手で引き寄せてきたように言葉が織り交ぜられ、短歌の骨格とはなんだろうか、という発想が歌集全体に軽やかに組み立てられている。私には澄んだ川底を眺めるような心地がする。「母」や「父」、「妹」など肉親の呼び名はそれぞれが独立して登場し、具体を負わせすぎない短歌的な人物として描かれている。この「妻」はどうだろう。「妻の花」という呼びかけが興味深い。この世界に「妻の花」と「妻の花ではない花」があることが示されている。それは妻じしんを指すわけではない。あれは妻の花だ、妻の花だった、というこの人の認識が世界に存在することを示し、そのことで、この人にとっての「妻」の性質のようなものがうすく、淡いがゆえに狂おしくうずくように浮かび上がるしくみ。初めて花を見たときに〈これはこの人のもの〉とは思われない。いつかどこかの繰り返しの中で、「妻の花」という印象は少しずつこの人に根付いてきたものだ。「妻の花」という表現は、生の過程、定着の過程を示している。
この人を通して「妻」は存在しているいっぽう、「見て」はあきらかに「妻」の声である。「妻」が指さしたとは書いていないのに、そう読めてしまうから、このとき「妻」は「花」とうっすら同化している。指した「ゆび」は布に覆われていない。瞬間、脳裏にこだまする「見て」の声に媒介されながら、言葉の世界から指だけがこの世界へなまなましく突き出されている。呼応するのはこの人の「うん」である。書かれた小説をちぎった断片のように、複数の人の声がこだましている。散文的な肉声が韻文的にこだまし、増幅しているというのか。ある骨格をもつドームがあり、ただその中ほどへ立てば、壁もなければ果ても見えないような夢の世界がある。四辺のある写真を眺めるような隔たりの感覚と、突き出された指をつかみさえすればそちらの世界へ引き込まれるような没入感。両方を往来するなかに、「いまも露路に咲けり」という時間軸の破綻が生じる。写真の風景が一掃され、あらたな昼咲月見草がとつじょ花開いている。過去と現在、それぞれの地点でさらに昼夜という区分があり、花ひらく昼は互いをめぐりながらそれぞれにある。何と切なく、美しい時間だろう。
