『藍の紋』初井しづ枝
人魚の正体がマナフィであったり、遠い草原で目撃されたライオンの姿を言い伝えたものがスフィンクスであったりする。写真や動画によらず、見た人が、見ていない人へそのありようを伝えるとき、もちろん口伝えによる伝達の難しさもあろうが、その奥底にどこかふしぎな光の歪みのようなものが生じるのではないか。掲出歌でこの人はバスの車内にいる。乗客の小さな私語が聞こえるほど近く、そのうちの一人としてまぎれて。バスが走行する隣に競馬場があるようだ。その事実もまた、乗客の私語から知ったのだろうか。乗客たちははたして見えるかも見えないかもわからない競馬場に向かって、窓の外へ遠く目をこらしている。レースに対する興奮があり、興奮はバスを傾かせるほどに重くなりつつある。こんな光景を描いたものはあまり見たことがない。この面白い光景は見事に歌になっている。ただはたしてこのバスの傾きは、実在したのだろうか。いまのような重厚な車両ではなかったかもしれないが、人間が片方に集まり多少なり重心が偏ったとしても、この人が傾きを体感できるほどに、車両の軸が変化するとは少し考えにくい。もっと純粋な、実体のない興奮の重みのほうが、乗客の声が低く漂っていることとも合わせて、要素として大きいと感じられる。ふしぎなのは、この人は車内にいるはずなのに、一首を読み終えたときに頭の中にはゆっくりとカーブに沿って傾くバス自体の車両のイメージのほうがくっきりと刻印されていることだ。コマが複数あるイラストを見たように、窓の外を覗き込む乗客たちのイメージがあり、続いてバスが傾き、走り去る光景のイメージが残る。ただ一首のなかで、そこまではっきりと書かれないものが、レンズを通した歪みのようにデフォルメを経てつよく印象付けられる。
その音の無きは淋しく競馬見え観衆も見ゆバスに我ゐて
と次の歌にある。たしかにこの場の「私語」はイラストの吹き出しとして示され音がしない。ただ無音のイラストであっても、想像の中でバスが駆動し、競馬場ではレースの音が響いている。
その持てる金冠に光の添ふごとし冠鶴はみづから知らず
こうしたまなざしもある。たしかに、冠鶴は自身の頭にうつくしい色の羽毛が生えていることに気づけないのだろう。加えて、そもそも本当の冠鶴はどうしてもひとつの鳥にしかすぎないから、知る・知らないといった認知の概念は持ち得ないのである。知ることができない、という冠鶴の状態はさびしい。しかし、こうして歌として伝えられる姿はうつくしく、なかばスフィンクスに近い幻想をまとって擬人化されて見える。描写の中に抑えの利かない生命があり、そうした部分が、歌をある種優美にゆがませる磁場として作用している。
