島田修二『冬音』
一首の「いま」と読み手の「いま」は四句目までは別々の認識をもって進んでいく。「明方のひかり白めるいま誰に訪れてゐん」の時点ですでに「死といふ時間」は歌の認識として四句目までに含まれている一方、読み手は四句目までを「死といふ時間」の含まれていない純粋な明け方の描写として読む。より細かく見れば、四句目「訪れてゐん」のあたりで「死」という文字が視野に入ってくるので、そこで読み手の認識は方向を変え一首の認識と同じほうへとシンクロしていくことになる。だから一首の認識は初句から結句まで直線であり、読者の認識は四句目あたりでくいっと曲がった線になるのだと思う。「明方のひかり白める」から感じられた新しい朝の光の白、はじまりの白が一転して白装束や白菊の、死者の顔色の白へ曲がっていく。
生者は基本的に死者となる時間を選べないから、朝にも昼にも夜にも二十四時間の至るところに死のタイミングは控えているわけだけれど、ピンポイントで明け方を指し示しているのがこの歌の肝であるだろう。先に述べた明け方の光の白、のイメージの転調。白昼の光とは異なるぼんやりとした白であること。横たわる者としてぼんやりと括られた人々を上空から想像の目が俯瞰している。近づけば寝息を立てているかどうかで生死の判断はできるものの、上空からの俯瞰ではその判断はむずかしい。だれが生者でだれが死者か曖昧なまま夜明けは進んでいく。が、俯瞰のまなざしに映された者のなかに必ずや死者が混じっている。けれどもそれがだれかは分からない、そうした不明の感じが「訪れてゐん」の「ん」にある。
このように意味からすれば曖昧なものを提示している歌なのだが、想像の目の持ち主はひとり覚醒している。たとえば「明方」のきっぱりとした表記や「ひかり白めるいま誰に」の機敏な言葉の動きから、その覚醒が見えてくるだろう。この歌が「あ」ではじまって「ん」で終わることも、わたしには覚醒したものの明晰な意識の表出に思われてぎらぎらとした目が歌のなかを隈なく飛んでいる気がするのである。
すでにして戦後にあらず水黒き運河といへど夏日かがやく
