『星夜航路』塚田千束
甲子園の球場が見える。目を細めずとも、かなりくっきりと。自分にもし可能性があったとして、あのように過酷な練習と実戦に耐えられるかというと答えはノー、であるのに何の接点もない十代の選手たちにやたらに共感し感動してしまうのは、「いちばんになりたい」という共通した執着によるものであること、この執着は「こども」が抱えるものであること、そうした観点を突きつけられる歌である。
同時に、この歌では批評性のような切り口はほとんど忘れ去られている。また朗々と歌いあげるためではなく、いまここにある悲しみ、しゃくりあげたいのをぎりぎりで我慢するための定型。初句の「どこにいても」が一音だけをこぼして踏みとどまり、「軋むよじれる」は正しく七音におさまっている。結句もまた七音におさまるが、「泣いてる」は本来は「泣いている」が正しい形状であって、乱れる寸前の表現である。「いちばんになりたいこども」――そうだなあ、なりたかった。生存者バイアスなんて言葉は知りたくなかった。一番になった人は運にも実力にも努力にも恵まれた人、それがなかったから一番にはなれなかったのだ、というような振り返りさえもう無益である。運も努力もなしに「いちばんになりたい」と願ってもいいではないか。何度でも泣けばよいではないか。それができるのが「こども」であるのだと、この人の葛藤はいたく複雑に見えてくる。「いちばんになりたい」というほとんど欲望のような吐露があり、「こども」ではないという自覚があり、泣いている場所も奥まった胸の中。「いちばん」はこれ以上なくシンプルで危うい願望であるが、いつなんどきも顕れる軋みやよじれは、もうボロボロに複雑になって解けそうもない。さらにいえば、「こども」は一次的には心にあるセルフイメージの一種であるだろうが、この「胸」は抽象的な心を意味することもできるし、物理的な身体としての「胸」とみることもできる。実体のともなう「こども」を抱き寄せて泣かせている光景とも読める。心象と現実が、いつでも軋み、よじれる。
「いちばんになりたい」とは何だったのだろう。たとえばそれをあきらめることで心は守られる。野生であるなら、群れのトップや川を初めに上りきった魚は強い生物だろう。同時に外敵には狙われやすく、群れの中で高めのリスクを負っているとも考えられる。そのように願う子供がたんに無知であるのかというと、そうでもないように思う。リスクを取りたがっていると考えるのも買いかぶりすぎだ。たとえば願望や欲望の、原初的なすがたの一つであって、それはある種、心ではもう見えないのかもしれない。
