大松達知『ゆりかごのうた』
「ヒットエンドラン」というナイターの野球観戦が描かれた連作のなかの一首。「一球と一球」はピッチャーがキャッチャーに投げるボールのことだと思う。野球にはそれほど詳しくないのだが、投手が一球投げたあとに次の球を投げるまでには思いのほか間があることは知っている。ピッチャーはキャッチャーから投げられた球を受け取り、足元の土を片足で均したりロージンバックを手に取ったりする。そのあとサインを確認して投球の構えに入る。そしてふたたびボールを投げるまでの間。この間に突如として「ちちはは」を思う時間が発生したのだという。「なにゆゑに」なのでその理由を作者も知ることができないでいる。この「ちちはは」を一般的な概念としてのちちははと取るか、自分の両親のことだと取るかは歌の読みの大きな分岐点であるだろう。三句目の五音は「ちちははを」でも「両親を」でもぴったり嵌まるから、この「ちちははを」には「両親を」では表すことのできないニュアンスがあるはずだと推測する。するのだが、この三句目のいろいろをナイター戦の野球場という特殊な環境と併せて言葉にするのがものすごくむずかしい。
ナイターの野球場にはたくさんの人がいる。都心の雑踏やラッシュの電車にもたくさんの人がいるわけだけれど、野球場はそうした場所とはまったく違う感覚がある。雑踏では人混みは見渡せず、人混みを見渡すことができるときその人はビルの上など人混みのなかにいることができない。だが、野球場という場所では不思議なことに人混みの粒立ちを見渡すことと同時にその人混みのなかに埋没することができてしまう。「わたし、とその他大勢」と「その他大勢のひと粒であるわたし」が一気に体感されうる場所なのだと思う。一球と一球の間の、真空のような時間にその体感がくる。わたしとあなたたちでありつつ、わたしとわたしたちでもあって、球場を埋めている観客がすべて「わたし」でできていることの圧倒的事実に直面しやすいかたちやからくりが野球場のような場所にはあるのではないかという気がする。また、強烈な照明に照らし出されているのは観客席ではなくグラウンドのほうである。野球場においての中心はグラウンドであり、そこでプレーする選手であり、「わたしという中心地点」は観客席のわたしからずれた位置にある。野球場にとってのわたしとはグラウンドであり選手たちである。とにかく野球場は「わたし」というものの形状がホログラムのように定まらなくなる場所だと言える。
「わたし」がさまざまに攪乱される仕組みのなかにいて、わたしである自身のルーツ=ちちははに目がいくのはひとつの自然な理路であるだろう。これがちちははであって両親でないこともおそらくは「わたし」の攪乱の巧まざる反映である。巧み、また企みを超えてゆくことの巧みというか、考えの尽きない歌であるし、ゆきつく先は血族を慕うような情緒の歌ではなくいっさい言葉にされていない野球場のシステムが詠まれた歌であるところもはかりしれない。
左手には飲、右手には食ありて拍手は顔の筋肉でする
