『蠢く』髙橋みずほ
一首組の歌集のなかで、連作「ⅶ 動く遺伝子」から。おなじ連作にはほかにこんな歌が収められる。
おしろい花の種まいていろいろのいろのはなさくゆめの彩
一本二本細き線あり藍色の変異というも江戸の朝顔
真白きしだれ朝顔ゆれてだれとはなしに生っ粋という
同じ形の種なくて種にはたねの想いを固め
全く詳しくないけれど、たしかに、遺伝子が生きものを構成しているのだとして、その変異のありかたは花を見るのがもっともわかりやすい。同じ種や近い種族であっても、色やかたちのバリエーションがとても豊富である。
他方、よほどのことがないかぎり、遺伝子が変化するものだという実感をもつことは容易ではない。身近にきくひとつがDNA鑑定であって、その技術はむしろ個人を特定するために使われている。豊富な変化のうちのただひとつの座標、それが〈私〉、個人の居場所を定めるための科学的な見解のひとつが遺伝子である、と理解している限り、〈私〉にとってはただひとつの遺伝子が与えられているという手触りだけがある。細い糸みたいなものが生命を駆動させているじっさいの仕組みがまるでわからないけれど、〈私〉がこの生を生きているかぎり、自分いがいの遺伝子を生きることは絶対に不可能な領域にあるという感じがする。服を着替えたり、ヘアスタイルを変えたりというわけにはいかない。
もうひとつ身近な話題が遺伝子組み換えの動植物である。これもまた、人工的に遺伝子を目覚めさせてすばやく代替わりさせている、というような理解がある。是非はともかく、人の手が介入していることは疑いない。
掲出歌では、朝顔が取り上げられている。「さきつつ」については、「裂きつつ」「咲きつつ」のどちらを採ろうか。花は咲くものだけれど、花びらは咲くといえるのか。むしった花弁を、指先で細く裂いているのだろうか。もしかしたら研究の工程として、採取した花弁をなにかに使うことがあるのかもしれない。結句では「動く遺伝子」という着地がある。しかも「風のような」。ふだん目に見えず、ましてどこにあるかもわからない遺伝子が、たしかに動いている。この「動く」は、相当に幅広い。花弁をちぎるなりして物理的に切り離すことも、遺伝子を動かしたといえる。この歌の本線としては、たとえば江戸時代にさかんに楽しまれたように、交配を通して遺伝子を動かしたこと、べつに人の手が入る以前から、朝顔はそれ自身で遺伝子を動かし続けていたこと。すべての時間を通して、タイムトラベルのように遺伝子が動き続けていると見える。むしろ「朝顔」という概念はすべての時間に固定であって、目に見えない遺伝子だけが、うろうろと多次元空間をさまよっているような。宇宙にも風が吹くといわれるように、そういうありかたが「風のよう」なのだと思う。ここまで読んでしまうとだいぶミステリアスなのだけれど、掲出歌はあくまでさわやかで、胸が躍るような切ないような、躍動感だけが残る。「さきつつ」の四音、「風のような」の六音による変拍子のスウィング。短歌の定型に対しわずかに体を揺らしてリズムを載せるような、破調の力であるだろう。
