吉田隼人『霊体の蝶』
ごくありふれた認識で言えば人をはじめとする生物は体のなかにたましいが入っている。たましいがあるから体は動き、感情やバイタリティーが生まれてきて、ほとんど「心」や「精神」といったものと同じように思われているものではないかと思う。「魂を燃やせ」とか「心を燃やせ」といった使われかたを見るかぎり、力強い行動の源としてたましいというものがある。とはいっても、たましいが力強く見えるのは体と連動しているときだけであって、いったん体と切り離されてしまえば、捉えようのないふわふわとしたものとなって、ありながらないものになる。いきなりたましいの話からはじめたのは、この一首にはなんだか体がないような感じがする、ということを書き記したかったからである。この歌にかぎらず『霊体の蝶』を読んでいると、ここにおさめられた作品には総じて体がないような気がしてくる。もしくは体がスライスされてひらひらとするほどにうすく切り出されているような、体の形状がほとんどたましいのようにうすい。そうした感触がある。
この歌には日々を過ごす、という能動はない。日々はただ過ぎていくものとしてあり、「日」の文字が使われているにもかかわらずこの歌から見渡したときに広がっていく生活の時間はあまねく夜である。おそらく活動時間の昼夜が逆転している。昼には目を閉ざし、目をひらくのは夜、そういう生活のリズムがあるのだけれど、それはリズムというほどはっきりとしたものでもなく茫然とした昼夜だけがある。具体として表れるものは「ふみ」「月魄」「函」だとして「ふみ」は「ふみもみず」と様式に移行することで具体から離れてゆき、「月魄」はひかりとなって存在をあやうくする。「函」は生活スペース、一室ということになろうが、これも「函」と述べられることで透きとおっている。いくつかの具体がそれぞれの理由をもってふーっと澄んでゆく。四句五句にまたがる「やどせるばかり」の筆致も個人的にはとてもひらひらとしたものに感じられる。何らかの具体にすがりつくことをしないたましいのただよいが一首の質感となりながら、それでも砂金のようにきらきらとしたものの微量のちらばりがかろうじて見えてくる。本質にまで透明が食い込んだ一首であると思う。
こころみだるる陽気のさなか希死の蝶うかみつ消えつ花にただよふ
