『月とスカーフ』河野愛子
百首あまり収録された自選歌集。髪の手入れをしている時間というものは、ほかのものにたとえにくい。浴室へ入るのに三分、シャンプーで洗うのに三分、それを流して、別のトリートメントを塗布して、また流して、タオルで拭いて、とすでに入浴中だけで十分以上はかかっている。その間、音楽を流すといったことも並行しにくい。さらに浴室をでてからはヘアミルクとオイルを塗布し、ドライヤーで乾かすという工程も待っていて、朝の支度ではアイロンで形をつけたり編み込んだりということもする。これが毎日。生活にしめる時間としては、三食のうち一食には匹敵するだろう。しかし食事ほどの楽しさはなく、どうしても作業じみてくる。異なるセットをするほどには技術もない。整容とは〈繰り返す〉という生活の定義をかなり際立った形で表現しているのに、自身の美を保つための日々の祈祷のような神秘的な行いでもあって、そのわりに消費社会の恩恵を駆使しないとやっていられない。なんとも名状しがたいのだがそれが現代ということなのか。
こういう生活の代表的な場面で、髪にはだいたい何かいい香りが付着しているほうが普通である。洗剤や柔軟剤もそうだけど、まったく無香料のシャンプーやオイルだけをそろえておくことはなかなか難しい。髪を伸ばしていると、そのぶん染髪やダメージの履歴が残るものだといわれるけれど、日々すぎてゆく生活の時間においても、同じように何かいい香りがつきまとっている。洗っては失われ、洗うことでまた別の香りが付着する。掲出歌ではしかし、何の香りもしない。体臭さえない。何の香りもしないということは、ここに生活の痕跡がないということだ。派手なパッケージも、香料のにおいもない。複雑きわまった日常のなかから、「髪を梳く」という行為だけが、純然と抽出されている。こうした濾過を経ると、たとえばこの人の感情や、このときの経緯みたいなものがだいぶ読み取りづらくなる。ガラスのコップの中に透明な水が注がれているようなものだ。ガラスはどの角度から見ても、奥にある事物や風景のことはわかるけれど、ガラス自身を確かめることはなかなか難しい。この人は無感動なのだろうか、正反対の激情なのだろうか。透明な、しかし長い髪の毛を、表情の薄い顔でしずかに梳いている。さきほど染髪やダメージの履歴ということを書いたが、そのとおり、ここでは日々の微妙な差異はにわかに沈殿して、ゆっくりとした波長の時間「来し方」が訪れている。はっきりと強調するような技法では書いていないのに、ささいなディテールが消えているせいで、読むほどに「来し方」の本質的な厚みが増すような感じがする。その大きな長い波のなかに、人の「ありさま」があり、「誰か」の影がよぎる。よぎる影を振りかえった顔に浮かんだ表情の変化までが、歌の末尾にわずかに示されている。
