『ざわめく卵』𠮷野裕之
1+1の答えが2に決まっている、と信じなくなった日から、大人の世界は始まるのだと思う。よく言われるのは、1+1=2の証明が簡単じゃない、という話とか、普段の数学とは違う体系では1+1=2以外になる可能性があるとか。なにかチームワークのたとえ話をする際に「1+1は3にも4にもなる」という言い方をすることもある。子供の世界では質問に対して厳しくひとつの答えが求められた。というか、子供らしい感受性というものとはまた別の側面で、あれこれ迷わずにただひとつの回路が教室のなかを通じていた感じがある。大人になってからもそういう場面のほうがじっさい多い。ただ、本当は世の中に見えづらい糸が数多く垂れていて、そうした文脈の可能性に思いをはせること、それが外的・内的のどちらの理由であるかを問わずときどき急にシビアに求められることが、大人の世界をふんわり漂い生きている感想である。気が付けば「1+1は3にも4にもなる」と、あるときははにかみながら、あるときは真顔で語っている。
文脈の歌である。「夕まぐれ」は歌のなかだけに生じる言葉で、ふだんの会話では「夕方」か「夜」としかいわない。帰ってほしくない、なのか、夕食の予定をこのつぎに確認しようとしているのか。遠距離の移動であれば飛行機や列車の時間とも関係する。とくだん理由もなく、帰る予定を尋ねているだけかもしれない。もし、この人だけでなく、問うてきた人もいっしょに移動してきた背景があるとするなら、いつまでここにいるのか、という意味にもなる。
これに対して、「夕方までいるよ」「昼には帰るよ」「明日帰るよ」としかほんらいは答えられない。その答えを探し出そうとして、この人は鞄をさぐりだした。旅行中であれば、旅程表かパンフレットのようなものが出てくるはずだ。しかも、おもしろいことに旅の長さと鞄の大きさは比例の関係にある。ほんの近所の外出ならポーチ程度。二泊、三泊と増えるごとに、鞄はより多くの荷物をしまわなければならない。いつまでいるのか、と聞かれてとっさに答えられないこの人の鞄が、さぐっているうちにだんだん大きくなってくるような感じがする。いくつかの可能性、見えない糸が、鞄のなかを膨れ上がってくるような印象がある。そして、けっきょく何を探そうとしたのか、答えは何だったのかわからないという感想が、「鞄のなかを」と倒置法で着地する不全感と重なりながら残る。もしかしたらカギをなくしたとか? それとも切符? 旅行でなければ、仕事の書類かも。荷物を探すもどかしさと、文脈当てのむずかしさが不安を通してつながる。立ち戻って旅行中の風景だととらえれば、浮き立つような胸騒ぎもまだまだ残っている。一方、「夕まぐれ」という言葉えらびでかっちりと定型で収めているところには落ち着きもある。人間を空高くから見下ろす太陽が夕日に変わっていくなか、世界が混沌と、豊かな液体に沈んでいくよう。
