上川涼子『水と自由』
これはごく個人的な体感であるのだけれど、季節の巡りは弛緩と緊張の巡りでもある。春夏の弛緩、秋冬の緊張。緊張ということで言うならば、もちろんその頂点は冬になる。ただ、緊張への推移をもっとも新鮮に実感できる季節は夏の大いなる弛緩から一転してゆく秋なのだと思う。同じように物質にも弛緩成分が多めのもの、緊張成分が多めのものがあって、鏡はそうとうに緊張成分が多い。薄くつめたくその銀色は曇りがなく研ぎ澄まされ緊張のかたまりだと言ってもいいくらいのものである。その鏡、その秋がひびきあっている。硬いもの同士の触れあいほどよく鳴る。この一首に関してまず感じるのはその鏡と秋とのひびきあいである。
鏡へ指を近づけていき、触れる。十指なので両手で触れている。そもそも鏡は見るものであって肉体が触れていいものではないのだが、触れてなお力を弱めることなく逆に強めていけばその力は「触れる」を「押す」へと変化させる。「押す」は対象の抵抗があってはじめて可能となる動作であり、こちらがどれだけ力を加えても鏡は同じだけ力を返してくるので鏡のなかに入ってゆくことはできない。また、近づけば近づくほどに鏡のなかの指は鏡の表面へ表面へと浮き上がってきてしまう。そのように秋の深まりにも指は触れることができないのだと一首は言っている。手を伸ばせば地面に落ちた紅葉には触れることができるし、白く靡く薄の穂に触れることもできる。けれどもそれは秋の表面であり上澄みであり、深まってゆく秋そのものには決して触れることができない。鏡のなかにも秋のなかにもいることができてなお意識的にその奥へ触れようとすればするほどに拒まれてゆく。しかしこれは一方的な拒否ではない。奥へ奥へと触れようとする者はひとつの現象について表面や奥といった認識の細分化を差しはさむことによってみずからが触れようとするものを拒んでもいるのだと思う。もっとたしかに触れたいと思うこころと認識の細分化とはほとんど一体であって、もっと奥へ触れたいと思うやいなやそれはとたんに触れがたいものとなる。その指は決して望むところに届いていかない。鏡に伸ばす指も秋に伸ばす指も、明晰であればあるほどみずからの明晰のなかにもがく指となるほかにない。
傍らの小鉢のなかの柴漬のフューシャピンクにふいに見蕩れき
予定は未定ですが、次回も『水と自由』から作品を取り上げて鑑賞できればと思っています。
