やはらかな身を擦り寄せる猫のごと火は親密に紙へ及びぬ

上川涼子『水と自由』

 

近づくこと、遠ざかること。前回「鏡」の歌を引用したけれど、比喩や言い換えが含まれる歌にはやはり鏡のような性質が切り離されがたくついてくるものだということを考える。この歌の火は猫になることでしなやかさやぬるぬるとした火の動きを導きだす。火が紙を捉える際の、あの動きがこれでもかというくらい明らかにされつつ、火はむしろ火であることから遠ざかる。火が本来持っている熱さや暴力性は猫の介入によって撓められ、火というものの全体性は脅かされている。ある一面に近づくことが、そのものの全体に近づくことと必ずしも一致せずむしろ乖離してゆくところに比喩や言い換えの不思議があり、描写の不思議がある。意識が対象に近づこうとして一面ではたしかに近づきながら、なお逸れてゆく感覚。

 

しらしらと天を解きて地に果つるまでの刺繍と思ふこの雨

 

雨は刺繍によってその水分を奪われていく。雨に雨であることをやめさせて、そのうえで雨に近づこうとするのがこの歌の刺繍に担わされた役割であるのだと思う。この歌は雨を掴み、また同時に雨を掴み損なう。言葉はつねに何かを掴み損ねるものだけれど、おおよその場合にはその掴み損ねは目に入らない。掴んだわずかのものをすべてだと錯覚してしまえる。あげた二首のような上川作品が読者の目に掴み損ねを映じさせるのは言葉による描写の鋭利さが限界近くまで達しているからこそなのだろう。鏡で言えば、おそらく鏡面に触れるか触れないかのところにまで言葉が来ている。だから一方では肉迫し、一方では遠ざかる。鏡面に映った自分に触れようと手を伸ばせば、手は鏡面には接近して鏡面の奥にいる自分からは遠ざかるのと同じような現象が作品の上で少なからず起きている。これらの作品が知らせてくれるものはたしかに火の動きであったり、雨のかたちであったりするのだけれど、それにもまして描かれているのは対象に近づきながら遠ざかっていく言葉それ自体のありようなのである。言葉は研ぎ澄まされれば研ぎ澄まされるほど人の手には負えない代物だという本性を見せてくるもので、その面白さも美しさも憎たらしさも味わうことのできる一冊として、『水と自由』が表れた意義はとても大きいものだろうと考えている。

 

上映のさなかに人は銀幕といふ布を見てゐることを忘れて

 

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