くらげって脳がないからくだらないことで泣いたりしないんだって

『最初からやり直してください』宇野なずき

たぶん、小理屈では泣けない。いくつかのささやかな違和感や齟齬によるひび割れが小さく光っているうちはまだ涙が出ない。あちこちから少しずつ掘り進めてきたトンネルがある日ついに繋がってしまい、小さな自分のほかにも穴を掘るものがいたのだと気づいてしまったとき、私たちのほかにも、無数のトンネルが、先の見えないこの岩盤の奥で掘り進められているかもしれないと知ってしまったとき、ふとぶととした論理で成り立ったトンネルの入り口同士をおどろくほどの音を立てながら風が吹き抜ける。突風に吹かれながら一滴のしずくがこぼれ、のちに声をあげて涙が止まらなくなる。これまでは誰ひとり、聞いてくれる人がいなかったのだから。

思うに名詞や動詞が外の世界の物事すべてを指すとして、歌の中にみられる助詞は、小さく分解した自分自身である。外界からやってくるあらゆる出来事を取りこみ、解釈し、仕分けるものが自分である。この歌では「から」「だって」が一首の論理、解釈を支えている。くらげは特殊な一生を送る生き物で、ある時期はプランクトンとして浮遊し、ある時期はイソギンチャクのように固着していったんは無性生殖となる。やがて大きく育ったものがよく知られたくらげの姿である、と聞いたことがある。そうだなあ自由そうだ。こんなに激しく姿かたちを変えられるのは、脳がないからだろうが、脳みそがないという状態をきちんと認識したことがなかった。日々、物思ったり欲にかられたりするのはみな脳があるせいだ。そうではない正反対の状態を知ったとき、この人はとっさに、泣かずに済むのがうらやましいと感じたことだろう。この「脳がないから」の「から」という一語に、軽く見えるけれどたしかにひとりの人が量感をもちながら立っていて、脳がある側から、水族館の分厚いガラスをじっと見つめている。「だって」のほうは、誰かへの呼びかけであることを示す。これは単に読者でもだれでもいいが、ほかの誰かを歌に登場させる、歌に風を通すという役目がひとつ。それよりも「くだらないこと」とある。泣いている理由がくだらないなんてことは、泣いている間にはぜったいに実感できないはずだ。傍から見てどれほど重くても軽くても、泣いている当人は抗うことのできない理屈で泣いている。それを改めて「くだらない」と認識してしまう客観性。客観性の担保のため、この歌にはほかの誰か、他者が必要で、そのために「だって」という助詞が選択されている。冷たい海を孤独に漂っているようなポエジーに満ちた悲しみがあり、一方では、論理に貫かれた自己を認識したうえでの悲しみが二重に覆いかぶさっている。だからこれは奥のふさがった洞窟ではなく入り口同士が繋がったトンネルであって、たぶん、この人の作品ではどの歌にも大きなトンネルが走っているから、見通しがよくて、さびしくて悲しい。

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