『金沙集』茅野雅子
※引用元は正字使用
いま読んでもふしぎなくらいしっくりと来る一首であるが、新聞というしくみがいつから始まったのか調べてみると日本では1870年から日刊紙が存在するということだった。『金沙集』は1917年の発行で、新聞の始まりから40年ほど経ったというところだろうか。
この日、この人はよく眠ることができた。よく眠れそうかどうかは、眠る前からわりと予想できることである。睡眠という活動は(たとえば日常的な運動や勉強とは異なり)自分ではコントロールできないのに、よく眠れるのかどうかは、日中の自分のコンディションに懸っていることが奇妙である。悩みがあってもだめ、疲れすぎていてもだめ。昼寝などもってのほか。この自己の手を離れそうで離れない不可解さが、「爽かに」という一語から反転して汲み出されるように見える。自分のことを「さわやかだなあ」とはあまり感じないものである。睡眠活動の結果に対してこの人は「爽か」を感じながら、しかし眠っているのは自分自身。鏡で見ているような、空中から眺めているような、ちょっとだけ他人行儀な言い回しが「爽か」ではないか。
こうした自己の内外の接触面、あるいは交感のようなものを仲立ちするものが五感のうちでは匂いであるだろう。「爽か」と感じることのできた睡眠をさらに深める理由があった。その理由が下句であきらかになる構成である。新聞紙からはたしかに特有の紙の匂いがする。いまでもそうだし、当時もそうであったのかという発見がある。秋にもっとも香り高くなるといわれれば、その通りだと感じられる。ここに置かれるアイテムが「新聞紙」であることが本当に効果的である。実際の状況はどうあれ、新聞紙はそもそも朝に届くものである。さらに紙面をびっしりと埋める活字が、みるみる脳を活性化させて目覚めへ導いていく。「爽か」な目覚めの実感があり、新聞紙が、匂いに導かれる夢の世界と、活字が立ち上げる知性の世界とを強固に接続している。
この人はふだんよく眠れていないのかもしれない。
悲しみもいつか消えむと時を待つ強きこころを我が持たなくに
狂ほしき憂の波にひるがへり心の貝のひかるなりけり
ひとひらの葉の落つるだに嘆かれし少女の心今は帰らず
合同歌集『恋衣』から続く愛恋の苦しみというモチーフがある。これは和歌の時代からの伝統的な素材であり、他方、あらゆる苦しみは理性や知性から生み出される客観によってもたらされるものだという近代的な認識があるだろう。これらの歌を私は理性的な表現だと思う。毎日考えることもやることも多すぎて、本当はもっと寝ていたいのに眠れていないから、ときどき深く眠れることの喜びが詩になるようにも思う。新聞紙という活字の塊が、この人を冴えさせる一方で精神の深いよりどころにもなる。日々新たに届きいくらでも見つけることのできる記事、見開きの両面に、そのように書いてある。
