山崎聡子『青い舌』
日々暮らしているなかで言われないと分からないことというのはさまざまにあるのだけれど、「どこまでも私が生きるこの生のこと」はもっとも根源的な「言われないと分からないこと」なのではないか。ほんとうに不可思議なことだが、人は他人の生を生きることができない。会話を交わしたり、一緒に生活をしたりして他人と交わることはできても、それが行き過ぎてうっかり他人の生を生きてしまった、ということには決してならない。「私」という場所は世界に何十億もあるわけだが、そのどれもが完全な聖域として存在し死ぬまで聖域は崩れることがない。生きることに没頭しているあいだは「私」であることの感覚はむしろ消えているものでまったく引っ掛かりがない。それでも、そのさなかでも、皆「私」だけを生きている。
この歌のなかで牡蠣はかなり複雑な様相を帯びる。視覚的には硬い殻をこじあけて取り出されたぬるぬるとした剥き出しの物体である。あのかたちと言い、手ざわり舌ざわりと言い、たましいを見たことはないけれど、いかにもたましいであるだろう。口に入れれば甘みによってコーティングされたまろやかな磯の苦みがくる。牡蠣によってもたらされた味覚、口中の触覚はまぎれもなく「私」だけのものであるし、「私」以外のたましいを体内に入れるや否やそのたましいは吸収されて「私」に同化する。すべての帰結として「私」がある。この歌にとって牡蠣は他者のたましいのイメージを曳きつつ、生きている限り崩れることのない聖域=「私」であることの苦みのイメージをも含んでいるのだと思う。
結局、私は私しか生きられない。あらためてその事実を言葉をもって彫りだしている最中、途方もない奥行きをもったどうしようもなさが姿を現そうとしていたはずである。その兆しを感じて手を止めることもできたのだろうけれど、この歌はそこで手を止めずにすべてを彫りだしている。一首の上で震えているのは舌であるにもかかわらず、読み進みながらより強く感じられるのは彫りだしてゆくときの手の震えである。みずからの生を彫りだしそこに向き合うことの震えが歌の中心を貫いている。
脱がせたら湿原あまく香り立つわたしが生きることない生よ
