『鴇色の足』奥村晃作
「日々のクオリア」を書くときに一冊の歌集を読むわけだけど、二日に一度歌集を読むことは、二日に一度だれかの生に向き合うということのように感じられてきた。日々の出来事をまるで書いていなくても、短歌という形式はどこか人生を前提にしているところから離れられないし、その定型の発射台から放たれた言葉、には命の色が付着している。シャトル自身は物理法則に沿ってどのような形もとれるが、燃料はいまのところ、生命そのものであることを離れてはいられないように見える。
私にとっては二日に一度の息絶え絶えな行いであっても、たとえば占いの達人は同じことを一日に何度も、直感的あるいは瞬時に行っているのかもしれない。その、人の生に正面から向き合うためには一種の体力が必要であるだろう。奥村の歌を読んでいると、体力の生み出し方や使い方、体術のようなものを活用しているように見えてくる。ただし作者にとっては、向き合っているのは自身の生であるが、読んでいる側もまた、同じように腕を動かしたり、こぶしを突き出したいような気持ちになってくる。〈ただごと歌〉は精神性を言っているようで実体は言葉のフォルムとして現れてくるもので、そのフォルムどおりに、身体を動かしたくなるような感じ。その動作によって、命が支えられ恵みをうけるような感じがする。〈自立〉という「難事業」がある。どういうところが難しいか少しパラフレーズするとすれば、人に迷惑をかけない、くよくよ、めそめそしない、私にとってはそういう解釈になる。これはとても難しい。頑張りすぎても結局迷惑がかかることもあるためだ。この歌では「自分で自分の身と心生きさせて行く」と書いてある。このように生きることが〈自立〉であり、はんたいに〈自立〉のためにはこのように生きなければならない。まるで禅問答になってしまうものを「難事業なり」と締めて、難しいよ簡単ではないよと、なぐさめのようにも書いている。たしかに、自分を認めるのは自分しかいないのだなあと、このごろ身に染みて思っている。ただしこれまで読んできた、またこれから読んでいく歌集という場においては、そういう自分がひとりではないこと、作者と読者、また批評する私がクロスして何重にも存在できることを感じられる。自分しかいない、という気持ちになるとき、それは強い鉄筋の支えではあるけれど、歌集の場ではもっと広く存在してもよいことを、忘れずにいたい。
