松村正直『について』
冬川ということはそれほどゆたかな水量でなく、他の季節にくらべても細くなった川を想像する。「わたりぬ」はすでにそこに架かる橋を渡ってしまったあとのことだと示してはいるのだけれど、「ぬ」の前に「橋をわたり」がくるという日本語の語順によって、読者はやはり一緒に橋を渡る。歌の意味とはうらはらに渡り終えたあとから読者がこの歌に加わることはできない、ということを考える。なんならこの歌の中の人が橋にさしかかるまでのうつむき加減の歩みやその眼下のアスファルトの連続までをともに見てきたような錯覚までが「橋をわたりぬ」という言葉に、その日本語がゆるした語順に入り込んでいるようにも思われてくる。生と死と川との三角関係から三途の川が思い浮かぶが、これが読みのトラップになっているのも面白い。三途の川は生と死を分けている境界だが、この歌の川は生そのものである。黒ぐろとしたアスファルトがつづきふと川の光が視界の端から湧き出してくる。そこは橋である。もう少し進むと河原の乾いた光の先に川の水が光を見せる。さらにゆけば川の光は河原の光となり、光そのものが薄れ黒ぐろとしたアスファルトの連続となる。
天国や地獄というのを脇において思えば、生とは闇と闇のあいだにはさまれた光の具であるのだろう。橋を渡っている最中だけ眼下には三次元がひろがる。橋に来るまでの眼下のアスファルトと橋を渡ったあとのアスファルトの二次元にはさまれた冬川の光の三次元を、「生きている時間」のもうひとつのかたちとして橋を渡ったあとに思い返している。「生きている時間のほうがみじか」いかどうか、直感としては知りながら実際には未生時の感覚はなく、死後はまだ来ていないから確信はだれも持つことができない。けれど、橋を渡るという行為を生きていることに照合するとき「生きている時間のほうがみじか」いのだという直感が確信へと変わる。橋を渡る、と生きている、の照合が正しいのかはまた別の問題なのだが、この照合が正しいものではなかったとしても、確信となるに十分な具体性をともなった錯覚であることに間違いはない。橋を渡る、たったこれだけのことでこの歌は一人の人間にまた読者に「生きている時間」を俯瞰する超越した存在感覚を与えている。
咀嚼する歯からたくみにのがれつつ舌はあじわう肉のうまみを
