『星の嵌め殺し』川野芽生
本当っぽい噓と、うそっぽい噓になんとなく仕分けることができるとしたら、この歌は後者である。鏡の中に現実の風景や覗き込んだ自身の顔が映りこんでいるのは、光学的に自然なことであろう。さらに「合はせ鏡」を作って、風景がどれだけ増殖しようとも、どれほど不思議な見た目であっても、それはあくまでも現実の延長線上にある物理現象である。ただ掲出歌の「ほんたうは夜空にひとつしかない星」、これは当然な噓であるのだとわかる。殊に「ほんたうは」と付け加えているから俄然、読む人は何かを疑いながらこの歌に接することになる。上句では「合はせ鏡を空に散らして」という現象が書かれている。地上でときどき目にすることのできる光景(合わせ鏡)が空に対して展開されることで、実現不可能な世界の下地が作られ、その世界ではたった一つの星があざやかな虚構の光を放っている。
念入りな虚構の操作があり、しかしながら、この噓を目の当たりにすることでどうしても胸が打たれるような思いがする。〈うそっぽい噓〉とは裏返しの真実なのではなく、その語りの操作や覚悟のようなものが、噓の強度に関わっているからだろうか。噓は現実の対義語ではなく、地に着いたもう片方の足や宙を探るしっぽのようなものであるだろう。この歌も、起点は現実にじゅうぶんに観測することのできる「合はせ鏡」であって、鏡の奥ゆきまで深く潜り知ろうとしたその先に、ついに知られざる噓へと突き当たったような、連続的な変化をみたという感じがする。どこまで深く潜れるかは、操作のプロセスや、精度によって影響されるものだろう。この歌では先にも書いたように「散らして」という下地があり、下地に沿って星がまたたく。加えて着地の「よ」という詠嘆は、たんなる余韻というよりも、ひとつの世界を生み出したのちの締めくくり、竜の目というか、吐息のような。鏡に映せばそれは一種の願いともなるだろう。鏡ごしの誠実な噓の世界に、深くまで潜っていく。「ほんたうはひとつしかない星」という発想は概念上の遊びのようではあるけれども、どこか切なく、夜ごとに遊び尽くされていくと見える。
