おぼえなき釘とわれとが残されぬゆふべひとつの棚組みをへて

岩岡詩帆『蔦の抒べ方』

 

たとえば本棚を買うことはだいたいの場合、すべてを結合すれば本棚になるだけの部品を買うということである。板は板、ねじはねじ、その他よく分からない金属はその金属でまとまっている。これらを説明書を読みながらくっつけて本棚にしていくことが必要である。ねじや金属にあらかじめ余分が含まれている場合もあるし、余分がないこともあるだろう。とにかく夢中になって棚をなんとか組み上げたところで、床には釘が転がっている。棚の部品だったのか、まったく関係なく前からその部屋に落ちていた釘なのか、または棚を組んだそのことによってその日突然虚空から生まれ落ちた釘であるかもしれない。「おぼえなき釘」という言葉からすれば、実感にもっとも近いのは虚空からの釘、であるような気がする。そしてその釘と同列にわれが置かれる。「おぼえなき釘とわれとが」の「おぼえなき」はもちろんダイレクトには釘へと接続しながら、ゆわんゆわんとその先のわれにもまとわりついている。釘が突然に虚空から産み落とされたようにわれもまた知らないうちにここにいるということ。

存在するものはすべて何かしらのなりゆきがあってここに辿り着いているはずだけれど、当事者や当時物にとってみれば自身が存在する場所がなぜここなのかおそらくはよく理解できていないだろう。棚の組み立てという日常的な出来事がいつのまにか、存在することの謎へと結実する。「存在することの謎」というふうに言ってしまうと神秘性や特別感が醸し出されてくるのだが、この歌にはそうしたニュアンスもない。謎ではあるもののそれはぴかぴかに磨かれて高いところに安置されたりしておらず、日常の手垢にまみれたままそのへんの床に転がっている謎である。いまわたしは自宅のリビングでこの鑑賞文を書いているのだけれど、テーブルの上にはものが散乱している。歯磨き粉、綿棒、ライター、たばこ、ピーナッツ揚、いくつかの歌集、マグカップ、ビニール袋、さまざまな書類……。考えてみればテーブルの上に散乱しているこれらのものですら、存在の根源を辿れるものなど何ひとつないのだということに慄然とする。当たり前のようにあるものの来歴をことごとく知らないのだということが、この歌を読んだばっかりにあざやかなものとなって押し寄せてくる。では、釘やわれと対置され、おぼえのあるもののようにふるまっていた棚はどうなのかと言えば、「ひとつの棚組みをへて」の言い差しの流れに運ばれて定型から退出してゆく。結局は謎だけがその存在を全うしているのである。

 

ゆふべには青くしづもり裂帛ののちの身として川流れたり

 

 

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