園児らが固まり歩くその体柔らかそうでぷりぷりしてる

奥村晃作『天啓』

 

奥村晃作の第二十歌集であるこの『天啓』を読んでいて、付箋を貼った歌、気になる歌、気になってしまう歌、引用したい歌はいくつもあるのだけれど今日はこの掲出歌かな、という気分で引用した。日常での散歩風景だろうと思う。歌集のなかほどには転倒して手術し杖をついて歩いたり歩行車に頼りながら歩いたりする様子も出てくるが、この歌の背後にある身体も同じようにおぼつかなさを伴ったそうした身体である。歌の表に表れる身体は園児。年の差はおそらく八十を越えているまだ不具合を抱えることのない園児の身体が日中の光のあたる場所をよぎり、一首においても表の光のあたる場所をよぎる。影のほうにある衰えた身体がひかりのほうにある園児の身体を見ている、という構図としてはそうであり、こういう構図がおのずから浮かび上がらせようとするものは対比や対比から派生し逆照射される影の部分の葛藤、この歌でいえば衰えた自分の身体ということになってしまう流れがあるはずなのにもかかわらず、この歌にはそうした逆照射や葛藤は皆無である。視線が園児のからだにはじかれて自身に還っていかないし、園児らのまぶしさが自身を照らし出すということもない。対象とのそうした往還によって歌の複雑性や自身の内面というものが浮上してこないところに大きな特質があるのではないかと感じる。

「園児らが固まり歩くその体」の時点でかなり割り切っている。「園児ら」と複数を指し示しながら「固まり歩く」を通過したそのいくつもの身体は「その体」と一気に単数となって再登場する。園児らがまるごとひとつの巨大な園児となったうえでの「柔らかそうでぷりぷりしてる」だから、園児にもさまざまな園児があってそのなかにはぷりぷりしていない園児もいるのではないか、というような素朴な疑問は知らずしらずのうちに押し切られている。「してる」も「している」なのではないか、というツッコミを瞬時に野暮なツッコミにしてしまうのは、歌が持つ割り切りの迫力、エネルギーがツッコミの迫力、エネルギーを上回っているからだろう。

「柔らかそうでぷりぷりしてる」、これはもう魚介類である。思わず笑ってしまうのだけれど、しかしなぜ「柔らかそうでぷりぷりしてる」を魚介類に対する褒め言葉としてしか使ってこなかったのだろうか、とも思わせるられる。いや、いろいろと書いたけれど読者はとにかく、まずはこの歌のエネルギーを浴びればいいのだと思う。

 

タンポポのポポのあたりを触ったら綿毛次々飛んで行ったよ

 

 

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