『紫陽花に祈ふ』雲嶋聆
紫陽花の花はいきなり咲いているように思う。その季節、寒さがゆるんでくる四月から六月あたりの気候の変化は微妙で、近年では五月に猛暑がやってくる場合もあり、先行きが読みがたい。七月から九月はじめくらいの、酷暑の間は妙に頭がさえて穏やかであった。兎角暑いということに精神を特化させて過ごしていればよく、身体は疲れていても、やたら動き回らないぶん頭のほうにはむしろゆとりがあったのだろうか。しかし四月から六月は変化の時期である。暑いと思えば雨も降り、羽織や傘はいるのかいらないのか、その調子をみはからっているうちに真夏が来る。天気のことばかり考えていると、道端の紫陽花が不意打ちで咲いている。
掲出歌は紫陽花が散った後を書いている。花としては長くもつほうだと思うが、散るというか、枯れているのもいきなりだなと思う。「散りにき」と枯れるではない散る側に視点を取ることで、この人の立ち位置は一歩、言葉の域に近づいている。つまり、桜を頂点とする花のカテゴリが存在する空間に身を置き、書き始めているということだ。気候の微妙な変化の中で、紫陽花の花がいきなり失われている。下句の転換では「喧嘩」がモチーフとなる。思えば喧嘩が始まるのもいきなりである。心のなかに苛立ちの種があり、ただ、なぜその種を露見させる気になったのか、当人でもいまいちわからない場合も多い。相手にいなされればそれまででもあり、両者の種が開かれた瞬間に喧嘩が起こる。この歌では「生れたての星」との喧嘩が成立している。有名な超新星は星の寿命が尽きるときの現象だというから、少し違うかもしれない。もっと暗いほわほわした幻想に包まれたような星、けれどまぎれなく一つの星ではある、そうしたものが秘めている種。地上で言葉の域に接したことで、この人は星の言葉を受け取り、喧嘩をした。喧嘩をしているあいだも頭のなかはぐちゃぐちゃなのだけれど、いったん収束すると茫然として、花が散ったあとのような、夕ぐれを眺めるだけのような気持ちになる。それは殴り合いだったのかとか、他人との喧嘩は無駄なものではないとか、意味を付け足すこともできるが、ちょっと野暮な気がする。これは地上という現実に目を瞠りながら、言葉という銀河の海に焦がれ交わろうとする人の歌であって、その態度が喧嘩と名付けられセンチメントを呼び覚ますのではないか。
