『架橋』浜田到
昔からこの歌がどうしても好きで愛唱している。「リーデルン」という単語を知る前と知った後で世界が一変してしまうような、そういう衝撃を忘れられない歌のひとつ。
美しき容消えゆく時間に棲み手、昏れいくども手、昏れ隠る
まだ昏き咽喉へひとつの卵流しわが孵る空ひろがるを待つ
おなじ連作から二首引く。ごく身近な体の部位があり、他者のものでも自分のでも、なにかそこに特別な意味を見出したくなったとき、見出さなければならないと感じたとき、短歌という装置が駆動している。「手」のある情景としては、夕暮れ時のじょじょに暗くなる時間に、身体の末端から溶けていくように見えるということだろうか。そうした風景があり、さらにその風景を覆うように、時代や信仰というモチーフが重ねられる。この「手」は自身や身近な人の持ち物のようでもあるが、彫像の脇に垂れた指先も同時に感じさせる。卵が流れ落ちる「咽喉」も、まずは暗い頸部という定番のような連想がある。その先には生まれなかった卵がふたたび孵る世界があり、またその卵が自分であったかもしれない。自分を生むはずの卵は自身の胴体の内側に奇妙に翻って存在することで、「空ひろがるを待つ」とき、自身の身体は地にうずくまりつつ透明になっているといえる。透明になった身体は無尽蔵の祈りが生み出される教会のような空間となっているとも見え、ただどこまでも身体性を離れることがない。
掲出歌は妻の瞼というパーツを書いている。そのとくべつな瞼の光にふれたとき、とっさに「リーデルン」という単語が感嘆詞として現れる。瞼が切れ長だという言い方はするが、実際に〈長さ〉を感じることはまれであるだろう。たとえば海岸線や橋の途上に佇むように、あたかも自身が眼球よりもはるかに小さくなり、その端から妻の目を見下ろしているような視座である。海がときおりきらめくように、妻の目から涙が零れ落ちる。それは恵まれなさゆえなのだけれど、恵まれることにはやはり二つの意味があり、物理的なものと信仰上のものがあるだろう。うれしい、と感じているのはどちらの理由によるのだろうか。次回か次々回に、『架橋』の別の作品を含めてもう少し読んでいくことにする。(続く)
