佐藤通雅『連灯』
白い歌である。「ゆき」の降り積もる光景がそう思わせるのはもちろんのこと、「たれかたしかにいへり」までいっさいの濁音がない。ひらがなで統一された濁音のない一行であることも一首の白さへつながっていくし、「たれか」という身元不明であり、顔の見えない感触は一首の白さを阻むことがない。白いものに埋め尽くされたなかに「ゆるす」だけがその輪郭をかろうじて残している。白さのなかに息づく主語もなく目的語ももたない「ゆるす」は無条件であり無限定である。「たれか」が主語だと言うことはできるのだけれど、「たれか」を「ゆるす」の主語だとしてみてもその先には顔の見えない存在があるのみで、「たれか」は「ゆるす」前後の一字空けによって容易に切り離されてゆく主語であるだろう。この歌の全面的なゆるしは、それなのにふわふわとしていない。全面的なゆるしのなかにあるはずの安堵がなくはないけれど、それと同等のきびしさが備わっているようにも感じられる。ゆるされた側の安堵とゆるす側のきびしさが拮抗しながら、そこにただ雪が降り積もる。
白、という一面だけを見ればありとあらゆるいきさつが浄化されていくような心持ちになりつつ、それが雪によってもたらされた白であるところに見た目の「白さ、やわらかさ」と感触の「冷たさ、痛み」の、これもまた拮抗によって生み出された出来事なのだと思う。降る雪のひとひらごとがこうして拮抗でできていること、その雪に埋もれた光景も当然拮抗の性質をもっていること。もう一度「ゆるす」に立ち返れば、無条件であり無限定であるこの歌のこの言葉は主語、目的語という手足をもがれた状態である。「ゆるす」とはときとしてみずからの手足をもぐような行為なのだというささやきが、たしかにこの歌の背後から聞こえてくる。ひらがなのなだらかなつらなりも、「ゆるす」に籠められたありとあらゆる文脈が流す白い血に思われてくる。「ゆ」きのうへに「ゆ」きおともなくふりつもる、二度表れるこの「ゆ」は「ゆるす」と言い切るまでのためらいに変化しながら「ゆるす」という一言をとりまくさまざまな拮抗は、それでも白さのなかへ回収されてゆく。
此処を逃れては見えぬものあり陶磁器のかけらの藍の紋様なども
