『架橋』浜田到
浜田到の作品は大半が破調、字余りなど「饒舌」(塚本邦雄)の様相を呈しているのだけれど、読んでいくと歌意や印象のうえでは沈静、収束といった味わいがある。定型というビーカーに言葉を溶かしていけば、やがてある時点で飽和を迎えるだろう。それまでに溶けた言葉と、今なお溶けつつある言葉が液体の中で見えなくなっていくとき、収束という情感が生まれ、溶け残ったものはときに破調や字余りとして浮かびあがるだろうが、目に見える結晶の総量はあまりにかすかで儚い。
貧しきを鎧ひし片頬ひえびえと海洗ふ日に少年火の如し
銃聲のくらき抛物線しづむ空を撃たれしものは昇りはじめむ
死に際を思ひてありし一日のたとへば天體のごとき量感もてり
地上逐はれし者さみしくて空のふかみに電工育ちゆく
いくら火のようだと書かれてもこの「少年」にはあまり高揚がともなっているようには見えない。これは静かな怒りの、静けさを特に強調する火であるだろう。「少年」や「銃聲」や「電工」は多くを奪われ失った空間にわずかに残った事物であり、撃たれながら昇ってゆく、臨終の間際に天体のように最大の存在になることができる、といった観念は、退廃というよりは言葉を通して世界のわずかな分子まで凝視し獲得しようとする顕微鏡の視点なのだと思う。
母の死のとほきそらより溢れくるひかり擾さず書架とほりにき
蜘蛛の巣にひそひそ六月はじまれば彼の夜の亡母に遭ふかもしれず
藍うすき夏の手向けの花もちて白日の亡母へ歸りゆくなり
背景には戦後という空間があり、また一部まとまった亡母というモチーフがある。前回、恵まれなさとうれしさとの関係について考えようとしたところで終えてしまったが、それほど恵まれないとしても、手元にわずかな恵みさえあればそれを慈しむことができるうれしさがより貴重に感じられるのではないか。という素朴なことをまずは思った。亡母とはいくら願っても会うことができない。蜘蛛の巣、手向けの花、といった現実のアイテムが、亡き人との対比として現実に青くそよいでいるのみである。どのようにあってもいまこの日を生きていることの重みが、天体のようにずっしりと膨らんでいる。
掲出歌では「今」が「痩せゆく」。仮に「広がる」「膨らむ」としては歌にならないので「痩せゆく」という単語が選ばれていると思うが、なんとなく過ごしている時間を微分していくこと、見つめることが「痩せゆく」に値するのだろう。また外套の中で冷えた身体を細く感じていることもある。外気に晒されながら震える指が釦をとらえたとき、その釦に突如、これ以上ない生の手触りが宿る。「一度二度」と、この人は手触りを何度もたしかめている。
