樅の木の線対称のいくつかを収めた冬のカメラを磨く

服部真里子『行け広野へと』

 

久しぶりにカメラという物質のごつごつとした手触りやその重量感を思い出した。「カメラを磨く」なのでカメラ機能搭載のスマートフォンなどではなくほんもののカメラである。また同じ「カメラを磨く」の結句から想起されるのはデジタルカメラというよりも昔ながらのフィルムカメラではないかという気がする。「拭う」よりも丹念かつ圧力の強い「磨く」には対象の頑健さに対する信頼がある。この歌からふうっと立ち上がってくるカメラのイメージはがっちりとした体格の、長年にわたって使用してきた相棒のようなカメラである。上句は「樅の木の線対称のいくつかを」。一読したときは「樅」と「冬」とのひびき合いからクリスマスツリーが脳裡をよぎった。そう読んでももちろん間違いということはないと思うのだけれど、上句のすっきりとした簡素な言葉のたたずまいを重視すれば山中に生えている装飾のほどこされていない自然の樅の木なのかもしれない。自然の樅の木がどこまで均一のとれたかたちを持ちうるものか定かではないけれど、一読者としては一首全体にただようそこはかとない険しさとカメラへの慈しみをも加えて、山道を辿って辿ってようやくたどりついた自然の樅の木と読みたい。

カメラに収められた樅の木は撮影者である自身の目がとらえた樅の木である。自分の目に映された冬の記憶は、ひとつは人間のものとなりもうひとつはカメラのものとなる。ひとつの記憶が異なる肉体に収められるわけだけれど、人間の記憶にはその日の寒さや道のりの大変さや自分の息づかいやその息が白かったことや、さまざまな前後関係が樅の木にからまっているはずである。一方でカメラの記憶は前後のあれこれとは無関係に「樅の木の線対称のいくつか」というような簡潔なあり方で樅の木の光景の純度を保っているのだと思う。「樅の木の線対称」が実際には枝の伸び方、葉の繁り方によって完全な線対称ではないのと同じく、人間の記憶のなかの樅の木とカメラの記憶のなかの樅の木は重ね合わせてみてもこうして微妙な差異が生まれる。「線対称」という言葉がテコの働きをして、むしろそれぞれの記憶の差異へとこちらの思いを到らせる。そのときカメラは自身の所有物でありながら慈しむべきひとつの他者性をまとっている。磨かれるべきカメラが、今こうして磨かれている。

 

積載量いっぱいに春の花のせてトラックは行く真昼の坂を

 

 

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