黒々と重き錠おろされいしが大地震は土蔵くらを屋根より崩す

『湖水の南』齋藤芳生

ルビはないが「大地震」は「おおない」(おほなゐ)と読んだ。きちんとした蔵というものを実際にはほぼ見たことがないので、想像することしかできないのだが、ふだんは使われないながらもたしかにそこにある、ご神木や社に近いような存在感を放っているのだろう。レトリックに頼りすぎない語りが『湖水の南』で実に魅力的だと思うけれど、よく見れば「黒々と重き錠」は人々の想像の中にある蔵の錠をそれとなく言葉で描写している。「おろされいし」の静けさは、「重き錠」がめったに開かれないこと、長い間その状態が続いていることを読み取らせる。

歌になった事件は、震災によって土蔵が壊れてしまい、人為的な錠ではなくぜんぜん別の屋根の部分から内部があらわになってしまったことである。ごく短く言い切ってしまえば日常が一変した、という状況が、蔵によって象徴的に、しかし実際の事件として書かれている。日々の風景から分離した記号や象徴が歌になるのではなく、風景そのものに象徴が深く刻まれている。日常の根底にあり、このときあらわになったものは何であったか。

暗闇に土蔵くらの壁蹴り続けしや祖母の残せる数百の靴
大地震に屋根崩されし土蔵より祖父の帽子も転がり出たり
歩いても歩いても同じ集落に戻るのだった祖父の一生は
湖の対岸に太き虹かかり近づけば消えてしまう祖父たち

この歌集では土蔵と暮らしてきた祖先、特に祖父母という存在が書かれている。語りに導かれ迷い込む気分になるのは、震災という文脈がある一方、そのもう数十年手前の、土蔵のある暮らしという文脈も織り込まれ、それらの文脈がさまざまに繙かれているからであろう。震災が生活の見方を変えてしまったことと、別の生活が偶然に露出して見えてしまうこととは、何も意識しなければ別々の出来事として済ませてしまいそうなのに、あくまで地続きに書かれている。言い換えれば、人の暮らしは何もしなければ少しずつベールに包まれ見えづらくなってしまうのだが、決してその存在がなくなるということはなく、いつも地続きのどこかに眠っているだけである。日々が過ぎ去っても、まるで失われるわけではない、ということが、少しずつ刻み込むように語られている。以前に内山さんが本書を取り上げていたときの感想にもやはり近いのだが、震災ではつらい出来事も山ほどあったはずでも、どこか心を静め落ち着かせてもくれるような、支えになる歌がいくつもある。

夢に手を伸べるさみどりふるさとの音たてぬ雨よき香りして

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です