尾崎まゆみ『真珠鎖骨』
直観的に魅力のある歌だと思いながら、その魅力を文章にしようとすると迷路に入り込んだようになるのは言葉と言葉のつなぎ目が通常ではあり得ないつながり方をしているからだろう。たとえば「これ以上の雨を拒否する」はあり得るし、「これ以上にこころをさわだてられたくない」もあり得る。これらは無理のない言葉の運動であると思うのだが、「これ以上こころさわだつ感情の雨を拒否する」となるとだいぶ話が違ってくる。「これ以上」には何かしらの助詞の省略を想像することができて「これ以上は」でも「これ以上に」でも「これ以上の」でもどれでもいけそうな感じであるのに、実際あてはめてみるとしっくりこない。また、「こころさわだつ感情の雨を拒否する」も「感情の雨」の「の」は主格でも連体修飾格でもどちらでも取れそうだが、どちらで取ってもどこかがはみだす。主格で取って「こころさわだつ感情が雨を拒否する」とすればここだけだといいのだけれど、「これ以上」とのつながりを含めて見てみると何かがぐにゃりとする。「感情の雨」をひとつの名詞として見ると「これ以上」とはしっくりくるけれど、今度は「こころさわだつ」と「感情の雨」のつなぎ目がぐにゃりとする。「こころさわだてる感情の雨」であればすっと流れていくわけだが、あくまで「こころさわだつ感情の雨」なのである。非常にむずかしい歌であると思う。それでもこの歌が魅力的に映ること、届いてくるものがあること、にはどうしたってわけがあるはずなのである。
この歌には「これ」「こころ」「かんじょう」「きょひ」「れんぎょう」「きい」とカ行音がベースに置かれているのと並行して「いじょう」「かんじょう」「れんぎょう」という三つの名詞のひびきがほとんど等間隔をとって鳴る。おそらくはこの、音のベースが一首のなかに二重の水面をつくっている。定型それ自体も水面のようなものだとすれば、三重の、それでいて一体化した水面がある。そのうえで言葉は思いのほか離ればなれであって「これ以上」「こころ」「さわだつ」「感情」「の」「雨を」「拒否する」「連翹」「の」「黄」はそれぞれが通常の言葉のように密接な連携をとっていないのではないか、という気がする。池にちらばる枯葉のように言葉と言葉は直接的な接触をしていないとして、しかしそれは水面でもってつながっている。定型のみならずひびきが一首の水面となることで水面のあちらこちらに浮かんだ密な接触のない言葉と言葉と言葉と言葉がひとつの有機体のように存在することができている。直列的につむがれてゆく意味と並列的なところから浮かび上がる意味と、その感触の相違についての示唆を与えてくれる作品なのだと思う。
手首くびれに甘い未来にみどり児の涙が零れさうな曇り日
