『蓮の島』種市友紀子
名前をつけることで、人は少しずつ世界との折り合いをつけてきたのだと思う。雨や雪といった自然現象もそうだし、もっと複雑で不可解な、経済の状態やなんらかの争いに至るまで。名前をつけることは、表向きであっても、対象を別の対象と区切って理解することである。自分にも関わりがありそうなのに、複雑で不可解な状態をわからないまま生きてゆくことは、危険だし苦しい。理解した、と感じることで人は安心しつつ暮らしてゆく。
それでも名前のないものが世界には無数にあふれている。たいていは利害のどちらにも関わらないから、名前がないというだけなのだろう。まさに名状しがたいものを名付けてゆくことが詩の役割のひとつでもあるだろうが、『蓮の島』には名前のないものを発見し、なおかつはっきりとは名付けないまま、存在だけを感じさせるような手つきがある。
木椀に受けたる水は弾かれてときに孔雀の羽をひろげぬ
をちこちにランプのやうに灯りゐる蓮の間を進みゆく船
木の椀に水をためたとき、半球の形状にそって、表面張力を持つ水がわっと広がる様。しっかりと見たことがなかったけれどそれはたしかに「孔雀の羽」のように美しい。ただし、この比喩はごく小さな感動を小さいまま手渡すための最小の宝石であり、なんだかここにこれ以上の理解はいらないのだという気がする。みずから小さくデフォルメされた存在となって書かれる連作「蓮の島」も、世界にはときにランプのような唐突な光が射すのだけれど、ちょうど光の境界を見定めるのが難しいように、その光はこれ以上には分解されない。
『蓮の島』を読んでいると、名前を付ける以外にも、世界を受け入れたり、安心したりする方法があるのだと感じられる。いままで見えなかったものに、名前を付けて役割を与え理解するというほかにも、詩自体が動いてその存在をほのめかしている。動きは人の視点から見て感知できるものばかりではない。掲出歌で渡っているつり橋から見える崖は、崩れながらその場にある。ただし長い時間をかけて。揺れているのは橋を渡る人の身体であると同時に、その精神でもあり、精神がさまよっている空間自体でもある。名詞的に構成された空間ではなく、〈揺れる〉という動詞を中心に成立する世界があり、はてなく広がる「羊歯」がちょうどその間にある概念のように見える。ここには新しい感動があるけれど、世界がそのままの形で、元からあるように広がっている。
