橋桁にゆるる水影鴨のねむりみだして人寝る電車すぎゆく

岩田正『柿生坂』

 

鴨も眠っているし、川の上をわたっていく電車の乗客も寝ていることを思えば、この歌のなかに天候のことはひとつも描かれていないのだけれど日中の何か蜜のような日差しの感じられる歌であり、おだやかな晴天を思わせる。鴨のねむりは水の揺れに乱されているものの、揺れによる覚醒はだんだんとまた揺れによるまどろみへ吸収されていく。鴨の上空には橋がかかり電車が過ぎていきながら、そこに乗り合わせた乗客も電車の揺れによる覚醒とまどろみの引き合いのなか、まどろみへ引き寄せられている。こういう風景の作品にはどこに視線の源があるのかわからなくなる場合が多々あるのだが、この歌の視線の源はまず間違いなく川岸にある。それは「鴨のねむり」と「人寝る電車」の描写の質の違いからあきらかになることで、「鴨のねむり」という表現には鴨の外観のみならず、鴨の内側のねむりに触れにいくようなねんごろな味わいがあり、対して「人寝る電車」のさくさくとして手際のよい表現は寝る人の内側にまで目が届いておらず、しかも「人寝る」はあくまで「電車」を飾る役割を持った言葉にとどまっている。遠近法には近くのものは大きく、遠くのものは小さく描かれる線遠近法と近くのものははっきりと、遠くのものはぼんやりと見せる空気遠近法があるけれど、この歌の描写は空気遠近法がばっちり決まっていると言ってよい。掲出歌は言葉によってどのように遠近が示されるかについてをこれ以上ないくらいに教えてくれる。

それにしても恐ろしいのは、人は想像の範囲外のことについていっさい知る余地がないということである。車内でぐーすか寝ているとき、だれが川の鴨のねむりを乱していることに思い及ぶだろうか。乗客は何の認識もないままに鴨のねむりを乱す側にいるわけだが、鴨の一件を契機として世の中の出来事のほとんどすべてが人の想像の範囲外なのではないかということに気づかされ、慄く。そして想像の範囲外の川岸にいま一人の人がいて、想像の範囲外の出来事のなりゆきをしずかに眺めていることにも、不思議と怖さを覚える。ある一人の個人にとっての計り知れない無限のなかに、別の一人の現実世界があること。当然と言えばそうなのだけれど、この一首を読むとその当然が剥き身になって迫り出してくるのである。

 

おさらひのつもりで妻にさよならと言へばにはかに悲しみ溢る

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です