『曳舟』吉川宏志
うまれながら本能的に体得できる技術と、後天的に伝えられる技術とがあるのだと仮定しよう。私は歩くことができるが、おそらく、ほかの人間が歩いているところを見て歩けるようになったというわけではないだろう。単に歩く能力がたまたま備わっていたというだけで、歩くことができるようになった。同様に走ったり、ものを投げたりすることはできる。いっぽうで、ソフトボールを何十メートルも遠くに投げることはできない。十メートルくらいなら投げられるのではないかと思うが、それより遠い飛距離を出すためには一定の訓練がいる。自己流の訓練もあれば、遠くに投げることが得意である人に、教わって投げられるようになるという方法もある。また、私は料理をすることができる。現代では火をつけ水を出せる環境がすでに用意されているという前提であっても、食材を前にして何も知らなければ、まずは素朴に煮炊きするくらいしかないはずだ。人から教わったり、本や動画で学んだりすることで、より複雑な料理のレシピを学び、獲得することができる。
人間にとって〈戦い〉は本能なのだろうか。掲出歌はその問いをあえてすり抜け「戦い方」について考えている。これは明確に、教わって学ぶことができるものととらえられている。何も教わらなくても戦うことはできるが、それは勝利を保証してはくれない。ボールであれば何度も投げて練習を重ねればよいし、料理も食材の許す限り、やり直すことができる。ただ〈戦い〉は、そう何度も負けることができない。へたをすると一度の敗戦で命を落としてしまうことがある。〈命を落とす〉とはガロアの決闘のような、近代までのそれとない思い出話であると同時に、現代に対しては比喩であり、しかも、比喩でない場合がいくらでもある。本当に、命をかけて戦うことが今でも大して世からなくなっていないのが、そもそも直視されない現実として存在している。
ボール投げや料理であれば、実践を通して繰り返し教わることができる。ただ「戦い方」は実践すると命にかかわるので、あくまでシミュレーションとして重ねることしかできない。「戦い方」を教えることは、いずれその戦法を使って教えた側が討ち取られるという危険を孕んでいる。だから「戦い方」にもまた自己循環的な戦い方のエッセンスが含まれていて、単純に「教えてほしい」と明言するだけでそうすべてを引き出せるものではないのだ。それでも、ただのシミュレーションであっても、核心は教えてもらえないとしても「教えてほしい」というすがるような吐露がある。秘密裏に口伝されてきた方法がこのときどうしても必要で、知りたいのである。ただ一度の実践に向けて積み重ねられる訓練があり、シミュレーションはやがて、現実の身体に到達する。それまでの過程と、結果として引き出される身体的な現実が、「石段」に切り刻まれた自身の「影」であるのだと思う。
ひとりひとりはいい人なのに、と思うとき迷いぬ今は悪だけを見む
