柵越しにアシカのショーをじっと見るイルカの背中を柵越しに見る

牧野芝草『整流』

 

人間のまなざしがイルカに届きイルカのまなざしがアシカに届き、人間、イルカ、アシカそれぞれを星とみなすならば、まなざしで結ばれた一直線の星座のような構図である。イルカも人間も背中しか見せていないからその感情は分からない。感情というものはおおよそ生物のおもて面に色濃く表れるものだから、なんとかイルカの手前、人間の手前に割り込んでその表面の様子を覗き込みたいと思うのだけれど、わたしが自分の顔を歌に近づけても、上句のアシカ側から言葉の隙間の空白を下句方向へ覗き見ようとしても、どうしたってイルカや人間の表面を見ることができない。ただ分かるのは、イルカはアシカのショーを「じっと」見ているということである。「じっと」は言い換えれば「集中して」見ている、となるだろうか。一観客としてアシカのショーを楽しんでいるとも読めるのかもしれないが、どちらかというと同僚目線で読みたい気がする。このイルカはたぶん自身の出番が次に控えている。アシカのショーが終われば次はイルカショーというプログラム編成になっていて、舞台袖でその出番を待っているはずであるから一観客ではいられない。同僚目線で今日も大変な仕事をこなしているなあ、という共感があるようにも、舞台に全身を上げて手を叩いたりする技を見ながらなんであんなことができるんだ、とライバル心を燃やしているようにも思われる。念のためにアシカショーもイルカショーもネットで映像を確認済みなのだけれど、イルカはショーの大半を水中に没している。ジャンプや立ち泳ぎで数秒間水上に出ることはできるし、プールサイドに体を乗せることもできるが、その場合でもぴーんと体を張ってみせるのが限界のようだった。水中ではイルカのダイナミックできびきびした動きに軍配が上がるものの、陸ではアシカが強い。その辺りのライバル心の機微をついつい感じ取りたくなってしまう。

同じように人間のほうも表情が見えない。ただ、スポットライトを浴びているアシカショーではなく、舞台袖のイルカの背中に視線が固定されているところに表ではなくむしろ物事の裏を見ようとする人間らしい思慮を感じさせる。読者のわたしが見たい、見ようとしていたものはイルカや人間の表面だと述べたけれど、少し考えればこの歌にとっては、イルカや人間の背中こそが表面であり、やはり覗き込みたかったのはその表面の裏側にある裏面となった表面なのだということになる。止みがたい人間の性である。

 

「シュミレーション」と言う年下の先輩に指摘しないという選択肢

 

 

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