いつからか蝶を恐れるようになりいつから大人になったのだろう

天野陽子『ぜるぶの丘で』

 

今現在の民法では成人年齢は18歳ということになっている。社会的には18歳になったらもう問答無用で一律に大人として扱われる。大人になるための試験があってそれに合格したら大人です、という個別具体的なシステムではないから18歳時点で大人にされながら、いやまだ大人という気分じゃないと感じつつ大人をしている人も大勢いることと思う。それでも大人をしているうちに、あるところで大人であることの逆らいようのない確信に気づく。ああ、もう自分は大人なんだ、とあきらめるときが来るわけだけれど、それは確信が生まれた時点というよりももっと後だろう。確信が出来上がっているのに無自覚なまま時間は過ぎ、しばらく、またはだいぶ経ってからはっとなってあれっとなって、もう大人なんだと来し方を振り返る。これは大人になりたい子どもだったか、大人になりたくない子どもだったかで気づくタイミングにかなりの時差があるような気がする。前者は大人になったことにきっと早く気づき、後者は気づくまでに長い時間を要する。そう考えると、この歌の「わたし」は大人になりたくない成分が多めの子どもだったのではないかと感じる。「いつから大人になったのだろう」という下句の不安げな様子からは、「もしかしたらまだ自分は大人じゃないのでは」といった声が同時に聞こえてくるようでもある。

「いつからか蝶を恐れるようになり」と「いつから大人になったのだろう」の上句、下句のつながりも接触の悪くなった電球の灯りを思わせる。あるときは上句、下句が原因と結果の結びつきをみせて、蝶を恐れるようになったとき大人になったのだ、とも読めるし、あるときは上句、下句が並列の関係になって蝶を恐れるようになったときと大人になったときは連動していないとも読める。スイッチをかちかち切り替えるたびに点いたり点かなかったりする電球の灯りである。そしてこの一首ではそのふるふるとした接続のあやうい震えの感触が、点く電球、点かない電球とどちらかに固定されて表れる意味よりも重要なのだと思う。大人であることを認めて引き受けてはいるものの、それでもその確信に生焼けの部分がある。自分は大人だと言い切れない弱さ、また自分を大人だと思い込むのを踏みとどまる強さ、その強弱のランダムな明滅が一首にゆきわたっている。

 

あざやかに卵の黄色にじみ出て ほんとうはきみに触りたかった

 

 

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