母の母その母の母あつまりてさやさやと愛づ老衰の母

川野里子『歓待』

 

この一首に何人の母が出現しているのかゆっくりと数えてみるのだが、数えられない。最初の母はイコール「老衰の母」であるとして、「母の母」は「老衰の母」の母である。次の「その母」でつまずく。これは「その母」イコール「老衰の母」であるとも読めるし、「その」イコール「老衰の母」で「老衰の母」の母とも読める。また、「その母の母」は視覚的イメージからは二人の母がいるようにも見えるし、逆に言葉通りに読めば「その母の」は「母」を修飾する言葉になって一人の母へと収斂される。分かりやすく表記すれば祖母、曾祖母というかたちにできるなか、あくまで「母」という表記に徹していることによって数えきることのできない母がこの歌には存在している。「老衰の母」を除くと合計四つの「母」の文字であるけれど、読み手であるわたしの目の前には無数の母が「老衰の母」をぐるりと囲んでいるさまが表れてくるのである。「老衰の母」は同時に「赤ちゃんの母」となり、はるかな過去からつむがれてきたかわいいねえ、いい子だねえの鎖網みが老衰の、また赤ちゃんの母のもとに届く。時空の直列性があるから人は順々に生まれ母は子を産み、子は母となるのだが、ここではそうした線状の時空が平面化しているからたくさんの母が、老衰であり赤ちゃんである母を見つめている。一連「Place to be」の次の歌は

 

母死なせ生きのびしわれに死にしわれ寄り添ひて立つ自販機の前

 

であり、掲出歌は母が亡くなる直前の歌だと分かる。死の直前が生誕の直後と混ざり合い混濁しながら、その濁りは何か白くととのっていく。言葉によって時空を組み換えながら母の死とは何なのか、に迫る。この歌には「また 会おうな」の詞書があって、

 

「また 会おうな」
母の母その母の母あつまりてさやさやと愛づ老衰の母

 

この「また 会おうな」はおそらく誰の声でもない。老衰の母も、ぐるりと囲んでいる母たちも、それを目撃しているみずからをも含めて時空に溶け込んだものたち、つまり時空の声なのだと思う。死のかなしみ、生誕のよろこびというような明確な感覚も溶け合っていて、色彩で言えば乳白のようにぼんやりとした、それでいてこころの鎮まる光景に感じられるのはどうしてだろう。

 

「もう 帰ろう」
宇宙から見れば今死ぬ吾の手が今死ぬ母の手を握りをり

 

同じ一連にあるこの一首も、死に直面する切迫感、それと併存するかたちで互いの「今」が凝縮しもはや時空の一点、ひとつの星として光っている。切迫感と、星空を見上げたときの何かぽかんとした感じがあり得ない融合を見せているのも、時空というものの組み換えがなされているからなのだろう。生死と時空とが密接に織り込まれた掲出歌であり、一連である。

 

 

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