『われやみちのく』田江岑子
以前取り上げた田江の歌をさらにいくつか読んでいきたい。
掲出歌は『われやみちのく』の冒頭に置かれている。「言葉とうことば」が失われた世界では、「白磁の皿」と「銀ナイフ」を呼び分けることができない。白く丸く薄いもの……という概念と、銀色に光る鋭そうなもの……という概念が、混然と机上にあるのみである。「いちまい」という数の発想もないだろう。名前もないのに、両者はあまりにも異なっていて、存在の違和だけがひしひしと感じられ、その違和は自身の身体にも到達する。何を隠そう私が言葉を「殺した」のだという事実は事実として残っているのだが、言葉が失われている以上なぜかこの人の中ではその事実が忘れ去られていて、ただ動揺したありさまが、歌の中では手放してしまったナイフの忽然とした光として表れている。
からまつの萌木に繋がれいる馬の立ちつくす眼よわれやみちのく
「殺して」あるいは「繋がれいる」という動詞のステータスは、それぞれの歌がたしかにこの今を書いているのだと示しているように見える。いっぽうで〈この今〉にこの人は投入されながら、断片的で刹那的な時間を過ごしているようではない。時間の只中に精神を置かれることで、精神は比較対象を失い、時間それ自体を感じ取ることができなくなるのだと思う。というか、時間とはそもそも比較できないものであったのだろうと思わせる。定型の中には、時間でも空間でもないなにかでなければ、埋め合わせることのできない間隙がある。その間隙に気づくとき、「われやみちのく」という体感がうまれ、向き合う馬の眼は〈私〉を透過してどこまでも澄み渡る。
食べのこる野葡萄の骨なかんずく血は血をよべと凩の吹く
こういう乾いた自意識はどこからどのように立ち上がるのだろうと、不思議に思う。「骨」とは葡萄の実がついている細い枝のような部位を指しているのだと思う。「血は血をよべ」の解釈が難しい。難しいからとあまり特定のテーマに寄せすぎたくはなく、これこそが体感であると決めておきたくもなるけれど、それだけではどこか物足りぬような。「なかんずく血は血をよべ」というフレーズのスピード感に沿って、「凩」が吹き抜け、それはあまり立ち止まらせる性質のものではないのである。意外に短距離走の歌であって、その速度のほうにこそ、体感と熱が宿っている。
愛とげて翔びたつ尾羽根のながき雉遠くとべざることも然思う
つくばいに月とどまるもわが熱き祈りの裡に病める母いて
水色の透きとおる電話ボックスに入りてわが街は雨と告げんか
好きな歌をまとめておくと、何かに閉じ込められた歌が多いのだなと思った。人を思うことの本質は、その感情の行き場が次々にふさがれていき、自分に自分を接続するほかないような苦しみを味わうことにあるのだろうか。つくばいを出られない月、細く寂しい電話回線と雨と電話ボックスに閉じ込められた空間。田江の歌を絶唱だと思い、その要素(絶唱とは何であるか)を抜きだそうといま試みているのだけれど、こんなに寂しく引き締まった絵が見えてくるとは、少し思っていなかった。
