『あるまじろん』荻原裕幸
もういちいち説明はしないのだけれど、「イタリアンブレインロット」の中で「ポット・ホットスポット」が好きだと聞いたときに「(梨×フーコー)」や「(ケチャップ+漱石)」や「ぽぽぽぽ」について思いを馳せたのだった。
(梨×フーコー)がなす街角に真実がいくつも落ちてゐた 『甘藍派宣言』
(ケチャップ+漱石)それもゆふぐれの風景として愛してしまふ
恋人と棲むよろこびもかなしみもぽぽぽぽぽぽとしか思はれず 『あるまじろん』
近代以降多くの人が取り組んできたのは、未知のものに対して無知な自分がどのようなスタンスを取るのかという試みに尽きるのではないかと感じる。「ブレインロット」が未知かといえば微妙なところで、今までの枠組みでだいたい説明がつくんじゃないか、というスタンス。二つのものをかけ合わせたり、無意味な音を連ねたりするのはあまりにも詩歌と近いところがあって微笑してしまう。この微笑というスタンスがある。少し逸れるが、「ブレインロット」の何が面白いかといえば、多くの奇怪な画像を人間ではないAIが作っているというところが子供にとっても本心であるように見える。AIのかぎりない試みからたまにスマッシュヒットのようなものがでる、というだけの面白さは、その画像やネーミングが奇怪であるかどうか、あるいはそこに含まれるごくかすかな意味性には厳密にはかかわりがない。意味のなさを面白がっているというのでもなく、コンテンツに対する不可視なフレーム、のようなものへのまなざしが鈍く光っているのではないかと思う。
わからないもの⇒微笑、というスタンスに対し、かつて若かった私は、何を思えばいいだろう。若いほど、わからないものがたくさんあるのに、もうそれは知っている、誰かが作ってきた道だという顔をされることがある。(梨×フーコー)は明晰で斬新だけれど、それを語ったところで……という苦いあきらめもまた、歌の中に潜んでいるように思う。だから真実は浮かび上がるはずもなく舗装道路に落下する。(ケチャップ+漱石)、「それも」、ほかのものと同じように愛することができる。選択を避けてごく自然に「愛してしまふ」。やるせなさと、あきらめたくなさの拮抗が、青年らしさでもあり、近代以降という大きな風景における、どこか人生も社会も手につかないという感じも示している。わからなさに対して真摯にぶつかっていきたい姿勢と、目上の人から見た〈わからないねえ(本当は知っている(本当に知らない))〉を感じてぐずぐずになる気持ちが、ケチャップと漱石を混ぜた何かの衝撃的な物質によって同時に示されている。
「三十になればぱたつと死ぬ」はどこまで普遍的なのだろう。私にとっては、確実にケチャップまみれの漱石の延長に置かれるべき気分である。道端の偶然の真実は信じていられないのに、「フルハウス」に対する確信は異様なものがある。といっても、もう三十をはるかに過ぎた。そういう予期が、あの日の微笑に溶け込んでいたのかと嘆かわしく、あとはみずからも微笑を続けるばかり、と言っているわけにもいかない……
