朝の駅、政治家を志す人の声を離れて足音を聴く

永井駿「天秤」(「四弦」第一号)

 

この一首の、世界の把握のしかたは軽くかつ硬い。把握は裏をかけばかくほど分厚くやわらかくなってゆくようなものだと思うし、世の中はだいたいそちらを必要なものと考える方向で流れていくように思うのだけれど、だからこの歌を目にしたときにちょっと虚をつかれたような気持ちになった。「朝の駅、」でかつんと場面を提示するのはものすごくストレートである。こんなにストレートなはじまりでその後はどうなるのだろうという軽いどきどきに見舞われる。朝の駅には辻立ちをしている人がいる。選挙期間中なのか期間外なのか定かではないが、訴えている内容のことではなく、訴えているその声だけが歌のなかへと掬われている。そうなると往々にして声の大小やその性質(熱がこもっているとかいないとか)まで一緒に掬われていってしまうことになるはずが、ここではそうしたものが丹念に零されただ声であるということだけが残る。同じように「政治家を志す人」もさまざまなものを零したあとの言葉だという感じが如実である。辻立ちをして政策を訴えている人を朝の駅で目撃することは多々あるけれど、身構えてしまったり疑いながら内容を耳に入れたり何かの裏を見定めようとするのがおおかたの社会人の所作なのではないかと思う。社会という場所は不思議なことに表より裏の数のほうがおそらくは多い場所である。政治家は言うなれば社会人のなかの社会人であるから、脊髄反射のようにその裏を見ようとするのが摂理で、歌のなかにもそうした摂理が及んでくるはずのところを掲出歌はそれらを零し切る。「政治家を志す人」という言葉の、自然濾過された岩清水のような感触を、思わず三度見、四度見して確かめてしまう。世界の、軽くて薄い把握が水のような言葉となり言葉の水が一回、既存の世界を洗い流していく。

下句「声を離れて足音を聴く」に到るまで把握のしかたは変わっておらず、「足音」も複数なのか単数なのか、音量はどうなのか、そのリズムはどうなのか、いろいろが零されていっての「足音」である。かろうじて「聴く」の「聴」に、人の声を「聴」いていた耳の感覚の名残りがあって、その名残りのなかであるがゆえに足音が「聞」こえるものではなく「聴」かれるものとして存在していることがわかる。ここにだけほんの少しの厚みが出ている。いずれにしてもこの一首は何らかの岩清水だと思う。

 

職人の刃物は音を立てながらなめらかに刈る秋の植木を

 

 

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