『藍を走るべし』大島史洋
いろいろ思い悩んで言葉を選ぶよりも、とっさに口をついた言葉があまりにもそのとおりだった、という感じの下句である。第一歌集の中でも、いくらかくだけた歌を作っていた期間のように見える。
うつしみの燃ゆるまぎわによみがえるいのちのさまを思いつつ居り
立ちしかば死にゆきしかばのちの世は銅鑼の如くにありたきものを
ひとつひとつ閉めだしてゆく思惟の束青き光をはなつがごとし
特定の主張なしに骨格が形成されている。「銅鑼の如く」を咀嚼しようとしても、打てば鳴るあの銅鑼以上のイメージが出てこない。音をきっかけに何か人生が動き出すというよりは、打たれるまでぽつりととどまっている円い形があり、その円に「のちの世」は閉じ込められているとでも言いたげに見える。たとえば景気づけのためか戦の本陣には銅鑼が置かれていたような気もするけれど、ともかく自分の意志のようなものはさておき、人の手で鳴らされるだけの存在。「のちの世」には数限りない可能性がありそうなのに、「銅鑼」といういくつかの色合いのなかで、ぽつねんとした存在感が強く示されている。「いのちのさま」あるいは「閉めだしてゆく思惟」にも、同様な収斂があり、それらの歌にどういった主張があるかを読み取ることは難しいかわりに、定型としてほんらい備わっている力が、ゆるやかに言葉を支えているように見える。
掲出歌では「一抹の望み」が少しつかみがたいのだろう。ただ上句が「はるかに聞こゆ」でくっきりと切れ、ブレスを経て「一抹の望み」と繋がっていくことで、特定のシチュエーションに沿わずともおもいおもいの「望み」のすがたが半自動的に浮かび上がる。そのおもいおもいな感じが、歌意として書かれる苦しみとあまりにも反発して、定型は痛ましさを増幅させる装置になっている。とっさの直感が歌となり、定型の効果を鋭く発揮させている。遠くを走る汽車は、なにもこの歌が書かれた時代だけに走っていたものではない。「はるか」であることが時間的な遠さを含むことができるのだとしたら、いつ何時も、読者は笛の音を聞いてしまうことだろう。
