山階基『夜を着こなせたなら』
だれかとの関係が深ければ深いほどに、自身がその人の未来の死を思う時間、また逆に、その人にとっての自身の死を思う時間は必然のようになって到来する。そうした未来の空想のなかにあって、その人が死んでいるときに自身は生きてかなしみ、自身が死んでいるときには今度はその人が生きてかなしんでいる。空想のさなかでも互いの死には時差があって、必ずやどちらかが生き残っている。いわんや現実をや、である。花の終わりを雨に打たれて金木犀がすなおに散っている。雨はみずたまりをなし、散ったあとの花がそこにいくつも浮いている。関係の深さがあれば、生きているうちは顔を並べて寝ることもできるし、顔を並べて映画を見ることもできるだろう。が、どちらかに死が訪れるとき、その死の時差によってふたつの顔の方向はばらばらになり、二度と並べることができない。雨に浮いた金木犀の花のひとつぶひとつぶは同じ雨に打たれて、同じタイミングで枝を離れることができたものたちであるから、その並びは同一の方向を向いているはずである。現実には裏返って水に浮いているものもあったりするわけだけれど、歌のイメージのうえでは花のひとつぶずつははなひらいたほうを上にして浮いている。「金木犀こぼれて雨に浮きながら」でのきれいな花殻の方向の一致は、下句「並べることのない死に顔よ」の最後の「よ」に到るまでに一文字ごとにだんだんに金木犀から人間へと重心を移してゆく。方向の揃った金木犀の花が知らずしらずのうちにばらばらの人間の死に顔へ変化する。もちろん一方の死だけではなく、生きているあいだの齟齬が重なれば死を待つまでもなくそれぞれの方向は異なってもゆくのだけれど、そうであればなおのこと今、顔を並べることのできる時間の黄金がこの歌をこすったなかから出てくるのではないかとも思う。
もうひとつ言えば、この歌にはきちんとした声がある。この声は決して重厚な力強い響きをもったドラマティコではない。声質としては旋律を歌うにふさわしいカンタンテであり、声の出しかたもソット・ヴォーチェ(静かな抑えられた声)であるような気がする。静かであるけれども訥々とはしておらず、なめらかに言葉がつらなっていく、そういう声である。歌の意味内容を味わっていくなかで、最終的にはその声を味わっているのだということに気づかされる一首である。
貸した本だけは返しに来るというがらすのような律儀にふれる
