雨が好き だった 頭痛がくるようになって本気の好きじゃなくなる

『デデバグ』なべとびすこ

「頭痛がする」ではなく「頭痛がくる」という表記に、丁寧な手つきがあり歌の入り口になっている。雨が降ると気圧の関係で頭痛が「くる」。気圧で体調が変化するなど気分の問題だろうと私も思っていたけれど、だんだんと気圧差が苦手になっているから自分では納得できる。痛みは自分以外の人から見てもわからないから、どこまでも閉じた主観であるはずなのである。しかしながら、この雨による頭痛は、外からぴょんと飛び込んでくるかのように頭蓋の内側へやってきて、人を苦しませる。頭痛というものが、身体がみずから発するサインというよりも外から着火されてうまれる火種のように見て取れる。

「本気の好き」は、それではどこからやってくるのだろう。初句でさらりと切れる「雨が好き」には、衒いのないさらさらの感情が込められている。湿度が心地よい、雨音が楽しい。外を出歩くのが不便ということがあるけれど、もし雨が降らなければ地上で水の恩恵をまったく受けられないという根本的な事情もあるし、わざわざ外に出ないだけの理由を作れるといった、ささやかな利己性に引っ張られることもある。けれどどうしても外に出なければいけないときには、やっぱり不都合だ。たぶん、この社会には、純粋なさらさらの「好き」であることができない何らかの異物が埋め込まれている。その異物を意識したとき、「好き」には「本気の好き」と「本気ではない好き」があるのではないか、という疑いが芽生える。さらさらの「好き」だけでなにも問題はないのに、そこをあえて読み分けないといけないような、認識のめざめがある。雨に打たれて濡れたままでもかまわなかったのに、あるとき雨傘を手渡されれば、ふと濡れている自分への疑いが頭をもたげてくる。たぶん、「頭痛がくる」ことと、「本気の好き」じゃなくなることは、じつはそこまでじかに接続はしておらず、ただ異物感のようなものでつむぎあわされているのだろう。むしろたどたどしい一字あけに挟まれた「だった」のあたりに、認識が強制される瞬間の、戸惑いが多く満ちている。漫画などの主人公が、記憶を取り戻すとか何か重要な転機を迎えるときに頭痛を訴えるシーンがたまにあるような気がするが、この「頭痛」もそういう性質のものではないかと思う。さらさらの「好き」が認識により阻害されること、それも外からの、しかし目を見開いてその変化を宜わなければならないこと。「だった」の戸惑いには、そうした否定でも肯定でもない、直視のような姿勢が込められているように感じる。

いま窓を開ければ豪雨 それでも、文末から文章を書かない

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