お湯の出ない流しにうすくなっていく秋鮭の血よ いってらっしゃい

大野理奈子「ドロニンジン」

 

しずかにアクロバティックなことをしている歌で、この感じはなんだろうかと繰り返し四回五回と読んでしまった。初句からぐにゃりとしていて「お湯の出ない」は文字通りお湯が出ないことを言っている。つまり、いま水が出ているかどうかは一切この初句では触れていないのだが、続く「流しにうすく」の「流し」という名詞からちょろちょろと水が出ている。動詞では「出ない」と言っておきながら、「流し」という名詞を使って水を出し「うすくなっていく秋鮭の血」の液体感へつながっていく。水の気配はあるのだけれど、それは押し黙った水の気配というか、水の気配だと思っていたものが秋鮭の血の流れに吸収されていくようにも思われる。だから「うすくなっていく」はちょろちょろの水と血がまじることでうすくなっていくとも読めるし、水とは関係なく、血が流しの底を伸びていくことで色彩的にうすく見えてゆくのだとも読める。いずれにしても生きている血ではない死んでいる血の脱力感がここにはあるのだと思う。水の気配の押し黙りも、水流の勢いによって血が生きている血に見えてしまうのをしずかに避けている。

この歌の血は死んでいる血であるけれど、血という液体は秋鮭の肉の傾きにしたがって流れをつくり、「流し」に辿りついた血は今度はその傾きにそって伸びていく。生命体としての動きは終わっていてすべては静に支配されていながら、もう動かないはずのものがそれでもまだ動きを見せているということ。「お湯の出ない流しにうすくなっていく秋鮭の血よ」にはそうした不動と動のアンビバレンスが言葉の押し引きの力加減と連動して染み出している。こうした言葉の連鎖は、やろうと思ってやれるものではないという気がしていて、必然の力をどう使うかというよりも偶然の力をどう残すかという話なのだというふうに感じる。

一字空けての「いってらっしゃい」。体外に出された血の動きには大きく分けてふたつあって、それは「広がる」と「伸びる」である。ここまでの鑑賞でさんざん「伸びる」ことを前提にした物言いをしてきたのは、「いってらっしゃい」が「伸びる」を見せてくる言葉になっているからで、伸びてゆく血のたしかな方向感覚、進み具合がなければ「いってらっしゃい」とはならない。逆に「いってらっしゃい」がこの歌にあることで血の動きの詳細がそこから炙りだされてくるのである。外堀だけで死んでいる血の動きを描きつくした白抜き文字のような一首だろう。

 

どうしても救われたくて飛び乗った地下鉄 ちがう 濁流 これは

 

 

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