篠原治哉「休職」(「パンパ」1)
それなりのカメラだとシャッタースピードは遅くしたり速くしたりすることができる。シャッタースピードを変えることで大きく差が出るのは、動いているものの映りかたでたとえば滝を撮ったときに速いシャッターだと飛沫まで鮮明に映る一方、シャッタースピードが遅ければ飛沫は鞣されたようになり滝全体がなめらかな流動体として表れる。この歌はカメラで言えばたぶんものすごく遅いシャッタースピードで撮られたものだと思う。午後の影がただ差しているのではなくそれはゆっくり伸びている。本来なら気づかないほどの速度でじわじわと伸びていく影が、ここでは「ゆっくり」とは言いつつ目に見えるはやさでにゅうっと伸びていく。シャッタースピードが遅いぶんこの一首にはたっぷりとした時間が含まれていて、かつその時間は一首という一か所に凝縮されているから午後の影はにゅうっと伸びる。じわじわ動くはずの影がにゅうっと伸びる時間尺度のなかで卓上にある電気とガスの払込票は微動だにしておらず、それらの動かなさはよりくっきりとこちらの目に飛び込んでくることになる。払込票は巌のごとく動いていない。動いていないしこれから動く気配もないのだけれど、自宅のポストから取り出していないわけではなく、他の書類の下敷きになっていたりもしていない。卓上に分かるようには置かれている。とはいえすぐに支払おうと思っていればふだん使っている鞄に入れたり準備するはずで、そこまでは支払いのボルテージが上がっていかない。かといってまったく無頓着になっているわけでもなく、その両極がちょうど釣り合うところに現れた真空地帯に感情があって、支払いに対する焦りも無頓着も何か脱色されて透きとおっている。
シャッタースピードの遅さに話を戻せば、つまりこの歌のさなかにはまばたきがない。午後の時間を目はみひらかれたまま固定されている。まばたきがあるとすれば結句の先の空白にあるだろう。そしてまばたきのなさがこの部屋から支払いの焦りやその逆の無頓着を、また一歩踏み込んで言えば人体があることの濁りを、消しているとも思われる。いるはずの人体は透きとおり部屋と一体化し、部屋そのものが卓上を見ているようなクリアな風景が現出しているのだと感じるのである。電気とガスの払込票が、一首のなかの何の引き金にもならずただ卓上に置かれることができている不思議を、まじまじと見つめてしまう。
オルゴール・アレンジされた名曲に待合室は肌寒いほど
