俗物のわれを見つめる仙人のわれのさびしさ病院の椅子

『鷗外の甍』坂井修一

いろいろな視点をもつことが大切だと言われる。鳥の目、虫の目という言い方があって、仕事をしているときにはディテールを見つつ俯瞰的な視点も忘れないように、逆もまた然り、という格言のようなものらしい。わざわざフレーズになっているというのは、言い換えればそういう過ごし方をするのはけっこう難しいということであるはずだ。よほど意識しなければ、虫は虫だし鳥は鳥である。いろいろな角度の視点をもつこと。すごく重要だなと思うし、一般論として行うに難いものだろうけれど、意図したとしてそんなにきれいに切り替えることができるのだろうか。

掲出歌では診察まちのシーンが書かれる。まず目に見える椅子にかけている「俗物のわれ」がおり、時計を気にしながら、診察は気が重い、悪い結果が出たらどうしたものかといった悩みに苛まれているだろう。「仙人のわれ」が「俗物のわれ」を見ているという層状の構造がある。高次にあるらしい「仙人」は、「俗物」が気に掛けるところの生老病死をいったん超越しており、彼の懊悩に寄り添いながら、いくらか人間という存在の「さびしさ」を感じているという構図である。複雑であるのは、歌のなかではもちろん「われ」は分裂しているのだけれど、この「仙人」としての思考も、あくまで「俗物」の脳によって処理されているものである。言葉の中ではきれいにレイヤーが敷かれているように見えるけれども、「われ」の脳が特に分かれているわけではまったくない。結句で独立した「病院の椅子」が神妙である。歌の構造をとりあえず分解してみると、ここにはまず「病院の椅子」という独立した背景がある。ドラマのロケーションでも、アニメの背景でもいいのだけれど、人間を取り除いた風景のようなものがはじめに見えている。そこへ通院のためにやってきた「われ」が腰かける。「われ」の視点としては、待合室の時計や、ちょっとだけ視線をさえぎる簡素なドアのようなものが見えている。ただ、歌の風景としてはすでに「病院の椅子」があらかじめ置かれているので、「俗物のわれ」は「仙人」の存在にさきがけて、歌の中に客観的にあらわれているはずなのだ。うまく言えないのだけれど、この歌では「仙人」の存在があらわになることで「俗物」としての自意識がたちあがるような構造をしているかのように見えて、しかしそもそも「われ」ははじめから、風景に対して客観的な存在感を発揮している。自分としてはこうであると手ずから視点を整える以上に、意識しようとしまいと私の脳はもっと混沌と複雑に動いていて、そうしたとらえきれなさを「さびしさ」と名付けるための歌ではないかと思うのだ。

収録されている連作「鷗外守」(第六十回短歌研究賞)をはじめ、いろいろな歌人や創作者の取りあげ方に対しても、視点に対するはからいと、もう少し複雑な認識の活動のようなものを垣間見る。それらの認識の先に、残されてきた作品や思いがあり、手を伸ばせば触れることができる、という強い実感は、図書館という荘厳な場所からやってきたものかもしれない。

なぜわれが鷗外文庫のあるじかと問ふこゑもなし真昼真空

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