なりたがる前にわたしになっていたロックスターを夢にみている

『みじかい髪も長い髪も炎』平岡直子

本書を読みなおして平岡の短歌は意外にも文体のねじれのようなものが少ないのではと感じ、掲出歌もまた、すなおに上句下句で切り離しても成立しなくはない。

なりたがる前にわたしになっていた/ロックスターを夢にみている

しかし意味のうえではどうだろう。「ロックスター」という単語には、それがあこがれの的であるという概念が埋め込まれている。「わたし」が「なりたがる」ものは、「わたし」である以上に「ロックスター」だったのだという歌の出発点がある。ただ、人生でなにものかに「なりたがる」ための準備、いろいろなことを見尽し考え尽す以前の段階で、この人は「ロックスター」ではない「わたし」となった。そして結句に訪れる夢のなかでだけは、「わたし」と「ロックスター」とは鏡写しの反転を起こし、「ロックスター」がステージのうえから、うねる客席の中の一人、「わたし」をあこがれるようにながめている。

何かになりたい、という願望を、「なりたがる」かどうかという自由意志の枠組みでとらえたことがあまりなかったので、こんなふうに読んでみて世界がちょっと揺さぶられた。フィクションに閉じた世界であれば、〈なりたさ〉はもっと説明なしに押し付けられるもので、しかしこうした自省を経ることのほうがほんらい自然であるだろう。この歌じたいは平熱でありながら、コンサートホールの熱狂みたいなものも、薄く作用しているとも思う。「なりたがる」……子供のときに、自分はこういう気持ちである、こういうふうに世界を把握しているが、本当はこのように眺めたいのである、しかもそれを言葉によって外部にも伝えたいのである、と強く願いながらそれがどうにも果たされないという無力感に苛まれたことがあるだろう。だんだん長く生きていると、把握や説明に対する総合的な技量というか、テクニカルな手業のようなものがいろいろと身についてくるから、そのような願望はいつしか薄れて見えなくなっている。ただ、そうして大人になったとき、それは大人になるということではなく、より大柄な子供になっただけなのではないか、と感じたのである。とても俗に言えば残酷な現実と呼ばれるようなものだろうか。それは〈なりたさ〉の結果だろうか、違うのだろうか。どれほど無力感に佇んでいようと、子供ははじめから大人であったように見える。目の色と感情を読み、せいぜい応えようとしてくれる子供は、あまりにも大人びて見えると感じる。掲出歌の「ロックスター」が歌っているのはこうした難しい宿命のようなものであって、この場面の「わたし」は大人の形も、子供の形も両方をとっていることだろう。

冒頭で平岡の歌にねじれが少ないと書いたが、それは文体が明晰ということであって、なぜ明晰になっているかというと、語彙や言葉(口語)の処理のひとつひとつに、強い何かを込めるためであるように見える。意味性というと短絡に過ぎるようで、ただこのあたりに、現代の短歌を読んでいくための起点があるように思える。

なんとなくピンとこなくてsympathyって言い直す 言い直す風のなか

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です