めつむれど降るいなびかり 熱はかる手のやうに来て夢にまじりぬ

川野芽生『Lilith』

 

一、二句目までと三句目以降の時制について、読み手にはとりあえず三つの読みの選択肢がある。ひとつ、「瞑れど降るいなびかり」では目を閉じてはいるが、まだ眠ってはいない。三句目以降では眠っている。眠っているときにはいなびかりは止んでいる。ふたつ、「瞑れど降るいなびかり」の時点ですでに眠っていて、三句目以降でも眠っている。一首で同一の時間を形成しており、そのときいなびかりは降っている。みっつ、眠りのタイミングについてはひとつ目と同じだが、眠っているときにもいなびかりは降っている。こうして、一首のうちにいくつもの意味が散らばっているのは二句目「降る」の現在形によるところが大きいのだと思う。個人的にはひとつ目の選択肢、「「瞑れど降るいなびかり」では目を閉じてはいるが、まだ眠ってはいない。三句目以降では眠っている。眠っているときにはいなびかりは止んでいる。」をもってこの一首の読みとしたいのだが、ここはそれなりに意見が割れるような気がする。

「瞑れど降るいなびかり」は外の雷を室内、寝室で感じているのを描写しているのだけれど、その描写には人体を覆うものである皮膚のうすさが貼りついている。具体的にはまぶたである。まぶたといううすい皮膚の蓋を閉じてなお、いなびかりは目まで届いてくる。閉じたまぶたの奥には、つねにみひらかれた目があることを示しつつ一字空けて(この一字空けは時間の経過としての一字空けだろう)三句目に移っていく。三句目以降、水の入った透明な容器に牛乳を一滴垂らしたときの動きのようなものをイメージする。水中に落とされた濃い白色の一滴は時間の経過とともにうねりながら水に溶けていく。そのうすまり。いなびかりの鮮烈な光はまぶたのさえぎりで多少は緩められ、その後時間の経過、眠りの無意識によってさらに緩まりうすまっていくだろう。光の鮮烈が白くなりうすくなりひろがって「手のやう」な、それも熱をはかってくれる「手のやう」なものに変わる。踏み込んで言えば、鮮烈は慈しみへと変化していく。眠りという傍から見れば動きのない時間のなかで、ひとりの感受はほとんど幼虫が蝶になるほどのダイナミズムをもって移り変わる。最初にあげた三つの読みの選択肢のうち、ひとつ目を選びたいのは、今述べたように時間があらゆるものを鞣していく手つきの妙味、また一、二句の意識と三句目以降の無意識とが一首のなかで見せる競演の醍醐味を、この歌のもっとも魅力的なポイントと感じているからなのだろう。この歌の読み筋の分かれかたはそれこそ稲妻的でもあって、いなびかりのどの筋を本流とし支流とするのか、こちらの脳裡いちめんに走った読み筋の光の枝分かれそのものも、それはそれで歌のイメージとひびきあって壮観である。

 

記憶よりひとを剝がして捨つるごと まぐのりあ 皓きはなびら落ちて

 

 

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