われは無気力ならねど無力 飛びながら宙にとどまる蜻蛉せいれいの弓

『獅子座流星群』小島ゆかり

努力の方向性、という言葉がある。仕事について考えたり調べたりしていると、自分はもっとこういう力を身につけねばいけないとか、こういう人間性を養う必要がある、というメッセージが次々に飛び込んでくる。その必要に向けて、最短のベクトルで最適化されるものが「努力の方向性」である。誤った方向性の努力は、求めるベクトルに作用しないばかりか、反対の作用を導く場合もあり危険であるとされる。いっぽう、そもそも「努力」自体を否定されることもよくある。なんでそんなに頑張るの、何の意味があるのかと、そういう発言を機にスタンスが分かれてしまったことが一度ならずある。

たとえば方向もなく無限に広がる森林に対して、たしかに一本ずつ斧を打ち込みつづけるような、純粋な努力はどこかにないものだろうかと思う。たぶん、ないだろう。「努力」とはいつでも、人をどこかへ連れ去ってしまう見えない靴であるだろう。掲出歌の「無気力」と「無力」の間には、おそらく「努力」という薄い色の気体が漂っている。この連作の一首目には詞書付きでこのような歌がある。

フランス、ムルロア環礁核実験再開
風が眼を濡らして過ぎるこの秋の聖ぎんなんと水素爆弾

少し視野を拡大すると、個人の努力と、集団の努力というものがある。私は努力をすることが多分好きだ。努力によって、暗い空疎な空間をわずかでも埋めることができると信じているから、努力のようなものが好きなのだろう。この好きであるという気持ちを寄せ集めると集団の努力がうまれるわけだが、ここには明確に、誤った方向性というものが存在する。その、人を集団に変えるという局面において、単純な足し算というモデルはおそらく機能していない。私は個人の努力に誤りも正解もない、といいたいのに、集団の努力には正誤がありうるだろうと直感している。このように引き裂かれる認識の在り方が、掲出歌でホバリングする「蜻蛉」として浮上しているようにみえる。一見すると、個人がその力の弱さや小ささを前に茫然と立ちすくむ姿として「蜻蛉」が成り代わっているように思うのだけれど、起きている事態はもっと激しくて、この「宙」は人のサイズよりはるかに大きな空間を表現しているのではないか。このとき「われ」は特定の座標ではなく、静止しながらも分裂し、散在しているといえそうではないか。結句では「弓」と収められることで、わずかにどこかの方向が指示されようとしている。しかしまだ何も起こっておらず、分解された「われ」のまなざしと「蜻蛉」の大きな複眼がにわかに交錯しているように見える。言い直すなら、救いと、緊張感の間にうまれた歌であるだろう。

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