山下泉『光の肖像』
ひとつの言葉を発しようとするときに胸のうちがどうなっているのか見ることはできないし、言葉を発するまでの心理的手続きは仔細に確認できるほどゆっくりとした動きをしているわけではない。だから思い浮かんだことを思い浮かんだまま口が動いてぺらぺらと言葉を出しているような感覚を当たり前にしているけれど、この一首を読むとそうした当たり前を鼻先に突き付けられたような気持ちになって、はっとする。突き付けられた当たり前が、ほんとうは当たり前ではないこととなって鼻先に接近している。「寂しさを言う」を直接的な母の声にすれば「さびしいよ」という感じになるのだが、一般論として母が自身の子に向かってこの言葉を言おうとするときのほんの短い時間のうちには、四方八方からの感情のおしくらまんじゅうがあるのだと思う。こどもに心配をかけてはいけないという配慮、親であり大人である自分が子に対して言うべきことではないという矜持、そんなことを言ったらみっともないという羞恥、それでも「さびしいよ」と言ってわかってもらいたいという本心、この子の前でしかそんなことは言えないという信頼。「さびしいよ」でなくても、何か言葉を発しようとするときの胸のうちはかずかずの絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたような色に染まっているはずである。そのおしくらまんじゅうから言葉を押し出すこともあるかもしれないけれど、大人であればぐちゃぐちゃのまま言葉を胸の底に押し込めることのほうが多いはずである。
「一般論として」と前置きしたのは、この歌の母は一般論としての母とはおそらく異なっている母だからである。こどもから大人になり、またこどもへと還っていく一人の生涯の精神的サイクルに当てはめれば、この歌の母はすでに大人の時間を通り越し、こどもへと還っていく途中にいるのだろう。それまでの母が抱えていたであろう感情のおしくらまんじゅうは止み、その胸のうちは絵の具を混ぜ合わせたような色合いに染まることなく言葉を出すことができる。にごりのない透明な胸のうちに湧いたひとつの感情は「さびしいよ」というひとつの言葉に結びつきまっすぐに口をついて出てくる。そうした母の、感情の透明、言葉の透明、声の透明を感じながら、こどもへと還っていく母の精神に向き合う。またその向き合いの反射のなかにはこれまで大人の時間を過ごしてきた母のぐちゃぐちゃに混ぜ合わされ、胸の底に押し込められた無数の「さびしいよ」のまぼろしが顕現しているはずである。
食するとき噎ばぬ鳩にあやからんと老いびとの杖は鳩を飾りき
