をちかたに吹雪ける櫻夕闇はあぎとにしづみ耐ゆべきわれか

『繩文紀』前登志夫

一段と寒くなったので冬の歌が目につき、これも冬の歌だから採ろうとしたのだがよく見れば初春の桜の歌のようである。しかも、ここには桜はない。「をちかた」、遠いところにあって、目前に吹雪いているわけではないようだ。文脈としては山中の暮らしを描いているから、少し離れた場所にある、歩いてゆくこともできそうな場所の桜ととることはできる。「夕闇」を隔てて、「われ」と「櫻」が遠巻きに対峙していると読むことはできる。ただ、どうもそうした二項対立によって歌が飾り付けられているわけではない、という違和感が結句にのこるのである。一首の中には「夕闇は顎にしづみ」という展開がある。これはマフラーやコートの立て襟に顔の下半分を埋めているような様子に見えるので、まずは冬の歌のように感じられた。ほんらいは「顎は夕闇にしづみ」とすれば普段の日本語により近いものになるが、語順を入れ替えても文法がすれすれで成り立つ。しかしもう片方では、「顎」そのものがうっすらと暗みを帯びて夕闇に溶けていってしまうような、ちょっと奇妙なイメージも浮かんでくる。「耐ゆべき」というのはいちばんストレートな直感を書きだすと寒さに耐えるということにもなるし、「顎」と組み合わせれば、言葉や感情や思想をしのんでいるとも言える。下句を総合的に紐づけなおすとするならば、「夕闇」に対して、自身の自我のようなものを溶かしながら、しんしんと耐えている様子だとなる。目前にある森の表面は、遠くへ行くに従い迷路に変わっていくように、言葉の端々の作用によって、歌の内容も少しずつ色合いを変えてしまう。先に宣言されている「をちかたに吹雪ける櫻」は、残雪の残る冬の歌でもあり、桜吹雪を連想させる春の歌でもあることで、その重ね掛けによって「夕闇」に向かって紛れ溶け込んでゆく「われ」の行く末を予言してもいる。実景としての対立でもなければ、現実の「われ」と豊饒なイメージの中の「櫻」が対比されているわけでもなさそうで、ただ木の根元や土に広がる残雪のように、言葉や事物に対して意味がまだらに広がっていることを、自然そのもののように受け入れるまでの歌であったのだろう。

つぶやけば業苦のはじめ、きさらぎの星のひかりをはこぶ夕闇

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です