トイレットペーパー最後の1ロール使いはじめる寿命の途中

平出奔『了解』

 

一首のなかで「トイレットペーパー」と「寿命」がドッキングする。短歌では一見離れたもの同士のこうしたドッキングはまま見られることで、ドッキングによるクラッシュが火花を散らし、その火花を作者も読者も期待するものだけれど、この歌にはドッキングによる火花というよりもドッキングさせたら案外フィットしてしまっていることの面白さのほうに目がいく。トイレットペーパーを使うときには紙の端からどんどん手繰り寄せて巻かれた状態の紙を引き出していく。よくよく考えれば何だかその時点で面白いもののような気がしてくるのだが、ロール状になった本体には長さというものがない。厳密にいえばロールの長さはあっても、紙の全長はそこにない。ずるずると手繰り寄せ、引き出されることではじめてトイレットペーパーはその長さをあらわにする。それは時間の表れかたのようであり、絵巻のようでもあり、ただ白く細長くやわらかく引き出されていくトイレットペーパーはたましいの模型のようでもある、とこの一首を読んだあとのわたしには思われる。うすく引き伸ばされた紙は引っぱれば引っぱるだけ出てくるが、ある時点で終わりを迎える。この終わりは単にトイレットペーパーの終わりなので新たに12ロールなり、8ロールなりのパックを買えばまた引き出し放題の日々がはじまるのだが、今はまだその手前で最後の1ロールが残っている。

この微妙な残り具合のなかに、たましいの模型であるトイレットペーパーの寿命と自身の寿命が重なりあう。自身の寿命がつづくかぎり、トイレットペーパーはことあるごとに12ロールなりのまとめ買いをすることになるわけだが、最後の最後、つまり自身の寿命が尽きるときにこのふたつの寿命が一致する確率はとてつもなく低く、しかしたましいの模型とたましいそのものの終わりが一致しないことの不全感は拭いようがなくこの歌にまとわりついている気がする。最後の最後で帳尻が合わないことのたしかな予感。これは生きているあいだの何かいつまでもすっきりしない生きることのもやもやとどこかでつながっているのだと思う。排泄というのも生きる仕組みの短期的出口であって、生きることを終わりのほうからいくつもの光によって照らし出したなかに生の不全感を浮かび上がらせた歌だと感じるのである。

 

子どもたちが走って、走りながら戻る それに名前がありそうだった

 

 

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