『緑の祠』五島諭
水は水でしかないんだけど、地域によって軟水あるいは硬水といった違いがあることもある。飲むとちょっと味が違うな、とか、料理によって向き不向きがある、と感じられることもあるらしい。掲出歌のこの人は、味の違いを感じる前の、「口いっぱい」の水にあたふたとしている。水を飲みながら言葉を発することはできない。歌を歌うこともできない。水を飲むことは、瞬時であれ、人の行動をそれのみに制限する。水を飲むこと、あるいはそこに含まれる成分や味の違いのようなぎっしり詰まった未確認情報に支配されながら、この人は水を一息に飲み干し、支配を逃れ乗り越えようとしている。「苦しいね」という独り言は、振り向いたときのささやかな感慨であり、照れ隠しのように零れ落ちもする。このように水を飲むことは、「夕景」に対する印象にスライドするのであった。おそらく、同じ場所から眺めれば「夕景」は誰の目にも同じ映像が映りこむはずである。それなのに「苦しい」と感じられるのは、とても主観的な感情のはたらきである。水をぎこちなく口にふくむときのように、「夕景」を眺めて胸のつかえるような思いを経ているとき、主観的なまなざしは、あまりにもまっすぐに世界を向いている。
信じることの中にわずかに含まれる信じないこと 蛍光ペンを摑む
「わずか」という認識はたぶん率直な実感である一方で、実際に積み重ねてみるとそう「わずか」でもないのだろう。主観的には「信じないこと」は「わずか」しかないが、現実のそれは多分にある。そういう見方が強くなってきたとき、現実をハックする、リアルをハックするといったありようが生まれ広がっていることだろう。この人はまだ、「信じること」の大きさをまっすぐに信じている。「信じないこと」の小ささを信じることで、間接的に「信じること」が存在すること、その確からしさが裏付けられている。水の味を解析することや、信じられている文章にもう一度マーカーを引いて読み直していくことは、これからよりたくさんの「信じないこと」を生むかもしれないが、その作業を人任せにせずに手ずから進んで立ち会っていくというスタンスが、どこか懐古的な味わいももたらしているし、不思議と、近未来に射す光のようにも見える。表題に含まれる「祠」がそうした印象を持ちうることに、まったくもって疑いはない。
