洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音

平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

 

「洗脳」はマインドコントロールと違って、そこに恐怖が貼りついている。本来なら暴力や脅迫や監禁などの具体的行為によって思想を改造してしまうのが洗脳だけれど、たとえば家庭生活というのも透明で強固な監禁だろうし、社会というものもあらゆる潜在的恐怖を部品にして成り立っているものだろう。思えば世の中のそこらじゅうには無色の恐怖がやわらかく敷き詰められている、と言っても過言ではないように思う。「洗脳」は自分とはかかわりのない特殊な場所で起こる他人事ではなく、だれもが完全な当事者なのだということを突き付けてくる。「砂利」とは洗脳されて固く閉ざされ凝固した一人ひとりなのかもしれず、でもその洗脳によってかろうじて砂利であることができるのだとも言える。踏まれて軋んだ音を立てながら痛くも痒くもないのは砂利だからで、しかし砂利になっている自覚というものはない。「洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ」は明晰な声のようにも聞こえるのだが、この声の主も当然何らかの洗脳を受けていることになる。洗脳を受けているけれども洗脳についての告発をしている光景は、ゾンビ映画でゾンビに噛まれてまだ発症していない人が他の人たちを助けようとしている場面と重なる。ゾンビ映画と異なるのは、この歌の声の主もその声を受ける側の人びともみんなことごとく洗脳済みのゾンビだということである。

「洗脳は/されるのよどの/洗脳を/されたかなのよ」の「されるのよどの」の息継ぎのなさは有無を言わさぬ速度感があり、そこから「砂利を踏む音」までの距離を一気に飛んでいくところにも速度感がある。この速度感のなかにあって一首はミントガムのような清涼に包まれていると言ってもよく、「洗脳」がむしろ「洗髪」寄りの気持ちいいことのような顔をしているのも見逃せない。社会のような巨大なものが執り行う全体性をもった洗脳は、洗脳されつくしたほうが気持ちよく洗脳されたもの勝ちなのだという逆説が一首の速度感や清涼感にしっかりと漉き込まれているだろう。先ほどは洗脳された人びとのことを踏まれる砂利として述べた。それはそれで間違っているわけではないのだと思うけれど、同時に洗脳の気持ちよさの果てに何の自覚もなく砂利を踏む側にもなり得る。踏んでいるのか踏まれているのか、それすら分からないままに人びとの一人ひとりは正常で明晰な意識をもって世の中を生きていく。

 

絵葉書の菖蒲園にも夜があり菖蒲園にも一月がある

 

 

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