昼の星見あげて握る河原の石、ときに人の手、犬は鳴かすな

『虚国』奥田亡羊

定型には静的な性質と動的な性質がある。短歌であれば三十一音ほどでしかなく、ここに一度収まりきった言葉は、これ以上どこへも逃れようがないように見える。定型はとある風景を固定し、豊かな時間を水槽で受け止めるかのように内部へ沈めている。一方で、定型の中には韻律というかすかな動きがある。日々に対するある種の鈍い態度よりはすくなくとも注意深くいなければ、この韻律に気づかないまま、通り過ぎてしまうかもしれない。韻律にふれ、その振動を感じるとき、短歌には動的な味わいがうまれる。収まりきったはずの言葉は本当に見たままそうなのか、それでよかったのか、ここには別の見方や意味が格納されていて、まだ露わになっていないだけなのか。

「昼の星」が象徴的なのであろう。星は夜にみるものだという観念を、少しだけ揺るがすものが「昼の星」である。しかし星というものも目に感じる微細な光に過ぎず、実感としてそれほど強くはなり得ない。その実感に強引に割り込んできて、フィジカルな手ごたえを与えるものが「河原の石」である。石は当然ながら地球という星の一部である。遠い小さな光である「昼の星」と「河原の石」とは、握った手ごたえによってこのとき引きあいながら通い合う。自らと天体との引力は一度安定を示したかのように見える。その安定を再度くるわせるものが、「河原の石」にとって代わろうとする「人の手」であるだろう。石と違ってこの手は柔らかくて、温かい。それでありながら、石と同じように、この人と「人の手」とは完全に意思を同じくすることはない。読点が生み出すリズムに息をつきながら、石と手とは互いに入れ替わり続けている。星も石も、人の手も、どこか自分とは引力を隔てて結びついているだけの、遠くて、心もとない、しかし安定的な距離によってむしろつながり続けている事物である。この歌には遠さの実感のようなものがある。「人の手」はたやすく石にすりかわってしまうことがあるというその動的な印象と、一方で時間が閉じ込められた琥珀のような静的な直感があり、両者を同時にもたらしているものが「遠さ」という概念であると感じられる。遠くて見えづらいものほど、その隔たりが豊かさを呼び込むのかもしれない。それが人生一般における有様なのかもしれない。遠いものに対する見えない努力、のようなものが、「犬は鳴かすな」という犬に対する心がけにすりかわっている。喉の奥で吠えることをこらえている犬はふとチャーミングで、他のアイテムよりもわずかに地から浮いている。あるいは別の地に足をついているのだろうか。首輪にくくりつけられたリードはするりと手のひらを抜け、また新たな星を見つけるための動力となる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です